自分の当たり前は自分だけの当たり前「みえるとかみえないとか」
こんにちは。
二分の一成人式のために、産まれてから今までの年表のようなものを提出しなければいけない10歳のにーさん。にーさんの小さい頃の話をしていて、ひめとちびについての記録が少ないことに、不安を感じたくるみです。
歩き始めたのがいつとかどこかに書いてあるだろうか…?(頼みの綱は母子手帳)
にーさんの時は一応育児日記なるものをつけていました。
それによると、1歳5ヶ月でひらがなに興味を示し、「へ」という文字を見て、「ニョロニョロ」と言ったらしいです。
これはうちにある、ひらがなの積み木の「へ」の裏がへびの絵だからなのですが、これ、実はすごく早いですよね。
当時は1人目だったので、そういうものかと思っていました。
その後も着々とひらがなを覚えていき、2歳になる前にはひらがなもカタカナも全部読めていました。
現在2歳5ヶ月のちびは全くひらがなに興味を示さず、1文字も読めません。
識字能力抜群のにーさんはというと、人と話すのが苦手で同じくらいの年の子に自分から話すことはほぼ皆無でした。なので、幼稚園では年長さんになっても友達と呼べそうな子は1人もいませんでした。
ちびはもう同じ年の子に話しかけることができます。
同じ親から産まれた子でもこんなに違う不思議。
でもまあ、そもそも自分以外の人とは違うものなのです。
今日は、人と違うことについて、楽しく読めて、深く考えさせられる絵本です。
自分の当たり前は自分だけの当たり前
宇宙飛行士のぼくはいろんな星を調査するのが仕事。他の星では目が3つあったり、飛べたり、体が柔らかかったり、自分とは違う特徴を持った宇宙人が暮らしています。宇宙人との触れ合いを通じて、ぼくが感じたこと、それはどんなことでしょうか。
目が3つあって後ろも見ることのできる人の住む星で、主人公は特別扱いされます。
普段気にしない「後ろが見えない」ということが、注目され、不便、かわいそう、と気を遣われるのです。
私も普段目が見えない人は不便だろうなと思います。
なぜそう思うかと言われたら、世の中は、見える人が便利なようにできているから。
多数派に合わせて様々な物が作られているからです。
左利きの人も不便なことが多いとか。食事中に腕がぶつかったり、自販機の硬貨投入口が右にあって入れにくいのも、右利きが多数派だから。
「かわいそう」というのは上から目線に聞こえるのかな、と思うのですが、個人的には「不便」というのは特に問題ないと思って使っています。(どうなんでしょう。気分を害す方がいたら申し訳ないです)
不便というのは便利でないということ。多数派に便利なように世の中が作られているから少数派にとっては不便になるのだと思うのです。
では、あらゆる人が気持ち良く使えるように全てを作れるかと言ったら、現実的にはやはり難しいと思います。
多数派に少数派の気持ちを察しろというのも無理があります。
そもそも少数派がいることすら気付かないケースもあります。
少数派がどんどんアピールできたらいいのですが、そんな簡単な話でもないのが現状です。
多数派は異質なものを嫌い、少数派は排除されることを恐れます。
多数派が安心なのはどうしてなんだろう。
少数派になると声が小さくなってしまうのはどうしてなんだろう。
多数派が良くて少数派は悪いのだろうか。
少数派は不便で何もいいことがないのだろうか。
あることは多数派でもあることは少数派。そんな人が多いのに分かりあえないのはなぜなんだろうか。
もっと多数派とか少数派とか関係なく1人1人を尊重し合って生きていけるようになれないのだろうか。
たくさんの疑問が湧いてきます。
そんな道徳の課題のような難しいテーマですが、ヨシタケシンスケさん、さすがです。
大事なことだけれど、下手に触れると傷つく人がいたり、炎上しちゃうような繊細な話題も、ヨシタケシンスケさんの手にかかれば、こんなに楽しく、身近に、嫌味のない絵本になります。
1人1人が違う。
当然のことなのになぜかそれを忘れて、共感できない人を排除したくなる。
みんなと違う部分を後ろめたく思う。
みんな違ってみんないいのに。
とりあえず、自分の少数派の部分はさておき、多数派の部分については、
「自分にとっての当たり前は、自分にとって当たり前なだけ。」
ということをいつも忘れずにいたいと強く思いました。
ひめは読み聞かせ後にもう一度じっくり読み直していました。おそらくそれほど深い意味はわかっていないと思いますが、ただサラッと読んでも十分面白いのです。ボソッと書かれた一言も面白く、隅々まで楽しめます。
私は、ねんどメモや後ろを振り向く時の絵が可愛くて好きでした。
1人1人が「へー!」を楽しんで、いつもと違うたくさんの人と「だよねー!」って言えるといいのかな。