今はない職業に敬意を表して「おーい、こちら灯台」
こんにちは。
「このジャム、ドブドブしてておいしいね!」いつも独特な擬態語を使うひめの頭の中を覗いてみたいくるみです。
さて。
ちびは車の運転に興味があるようで、「何歳になったら運転できるの?」と聞いてきます。
私は、「18歳からだけど、なったら誰でも運転できるわけじゃないよ。運転を教えてくれる学校に行って…」などと説明しながら、ふと、ちびが大きくなるころにはもしかすると自動運転が当たり前になっているかもしれない、と思いました。
運転がそれほど得意ではない私にとって、自動運転はウェルカムなのですが、車の運転を仕事にしている方にとっては、職を失う一大事ですね。
人の手で行っていたことを機械に任せること。
これまでも、人はそうやって労働を手放してきました。
家事1つをとっても、洗濯機、ガスコンロ、電子レンジ、給湯器、たくさんの便利な機器によって、辛い肉体労働から解放され、時間を手に入れることができています。
桃太郎のおばあさんは、衣類を担いで川へ洗濯に行き、1つ1つ手洗いして、絞って、濡れて重くなった衣類を持って帰り、干していたわけです。
もうそれだけで、間違いなく1時間は潰れそうです。そして、本当に重労働…
濡れた洗濯物を2階に持っていくだけでハアハア言ってるのに。
ああ、洗濯機ありがとう。水道もありがとう。
けれど。
時々、ふと思います。
単調な作業を手放すことは楽だし、とても嬉しいけれど…
それと引き換えに手に入れたものは、本当に私が欲しかったものなのかな?
この恩恵を有効に活用できているのかな?…と。
肉体労働を免れたのに、運動不足のためにウォーキングや筋トレなどをしている不思議。
人の脳で処理しきれないほどの情報量の中から必要な情報の選択を迫られ、頭ばかりを働かせて、手に入れた時間を有意義に使うことに必死になっている。
その結果、余ったはずの時間には、あっという間にぎゅうぎゅうにやることが詰め込まれて、感覚的には時間は全然余ってなどいない。もっともっと!と時間は欲しくなるばかり…
機械に仕事を委ねて、このような生活を望んでいたんだろうか…
仕事を手放した分、もっとスローダウンして丁寧に軽やかに生きられたらいいのに。
今日は、そんなことをしみじみ考えてしまった絵本を紹介します。
今はもうない灯台守という職業についての絵本です。
明かりを守り届ける仕事
世界のさいはて、ちっちゃな島のてっぺんに、灯台がたっている。灯台の明かりを灯し続けるために、灯台守は灯台に住み、来る日も来る日もレンズを磨き、油を継ぎ足し、ランプの芯を切りそろえ、ゼンマイを巻く。そんな灯台守の生活が描かれたお話です。
世界のさいはて、ちっちゃな島のてっぺんに、灯台がたっている。
永遠に続くようにとたてられた。
遠くの海まで、光をおくり、船をあんぜんに、みちびく。
広い海の上を行く船乗りにとって、大事な目印となる灯台。
この絵本は、そんな灯台の明かりが、自動ではなく手動で管理されていた時代のお話です。
灯台守の仕事とは、日没から夜明けまで明かりの世話をして決して消さないこと。
ただ、それだけです。
けれど、そのためには、夜中の間、レンズを回転させるためにゼンマイを巻き、灯心の燃えカスを掃除し、ランプをに油を継ぎ足さなくてはなりません。
メンテナンスも大事です。明かりを遠くまで届けるためには、レンズを磨くことや寒い冬には窓に張った氷を除くこと。
さらには、霧を知らせる警報を発したり、海難事故があれば救助に力を貸すこともあります。
そして、何よりも灯台守の仕事を個性的にしているのは、灯台を家として住んでいるというその暮らしぶりにあります。
場所によっては船さえも近づけず、小さなボートで物資をやり取りするような海に囲まれた立地に、塔のような背の高い造りの、長い螺旋階段のある縦長の家。
気軽に外出できない隔離された家。
回廊(バルコニーのようなところ)に出て、見渡せば、そこには遠くまで広がる海。彼方に見える水平線。
そして、おそらく、強い風の音と24時間止まることのない波の音。潮の匂い。
けれど、そこには人間としての普通の生活もあります。
仕事以外の退屈な時間には、釣りをして魚を焼いたり、凧あげをしたり。
本を読み、日誌を書き、単調に繰り返される日々があります。
そこへ突然の高波や海難事故、深い霧。
あとがきにもあるように、その生活は、冒険と日常の両方で成り立っているのです。
なんだか、ロマンを感じます。
4歳にはちょっと難しいかなぁと思っていたら、ちびはなぜだか気に入ったようで、「おじさん凧あげてる」「これは何?」「助けてあげたね」「この子何歳?」などと興味津々で聞いていました。
こんな孤独で危険で地味な仕事は、今はなくなり、灯台の明かりは機械が管理してくれています。
けれど。
昔の船乗りにとって、遠くに見える灯台の明かりが人の手によって灯されていて、明かりの元にはいつも人がいてくれている、ということは、心の支えになったのではないか、と私は想像します。
機械化はありがたいし、全然反対ではないけれど。
手仕事の温もりや無駄と思える余白によってだけ、満たされる部分が人の心にはあるような気がするのです。感傷的かなぁ。
灯台に興味が湧いてググって見たら、GPSの出現により、灯台自体の存在価値が危ぶまれているらしいです。
ああ、ゆく河の流れは絶えずして…ですね。
たくさんの、今はもうなくなってしまった職業に敬意を表しつつ、新しい未来の職業に夢を抱いて。
大人にもおすすめです。
隣りの芝生が青く見えるのはなぜ?「とんでもない」
こんにちは。
ひめは何をするのものんびり。いつも「早く!」と急かしている私なのですが…。ある日の朝。約束の時間に遅れそうで、本人も珍しく焦って準備している最中。連絡袋に体温チェック表を入れるときに、「はい、これ食べてね。パクパク」と連絡袋をペット、チェック表を餌に見立てて1人遊びしていた様子に、なんだか力が抜けてしまったくるみです。
彼女は時間より大事な何かを持っているのかもしれません。
さて。
人をうらやましく感じること、ありますか?
私がよく思うのは、子どものいない生活に対して。
私の生活はほとんどが子どもの世話。
言い換えると子どもの世話以外はほとんど何もしていない日々(汗)
妊娠中から考えると、それを、かれこれ13年も続けているのです。
子どもがいて、さらに意欲的に働いている、という方もたくさんいらっしゃるのでしょうが、両立ができない私にとっては雲の上の存在です。
ふと、子どもがいない人生について考えます。
働いたお金は全て自分とパートナーのために使えて、
学校のことなどは考えずに好きなところに引っ越せて、
仕事も、安定や時間条件より好きなこと重視で働けるかも…とか。
話題のおしゃれなレストランやカフェやバーに行けて、
洗えるかを最優先事項にせずに服を買えて、
中辛のカレールーを使ってカレーを作れて、
段ボールで作った大きな工作がリビングを占有することもなく、
床に散らかったレゴを踏んで、痛みに悲鳴を上げることもない…とか。
けれど。
いなかったならいないで、
子どもは可愛いだろうとか、
子どもがいないと世間の風当たりが強くて嫌だとか、
親孝行できてないんじゃないかとか、
そんな風に考えてしまうかもしれない、と思ったりもします。
たぶん自分という人間は、子どもがいなければいないで不安になるタイプで、子どもがいることで自分の存在意義を認めることができている気もします。
そんな母親でいいのかは疑問ですが。
子どもは可愛いし、やりがいだってあります。
でも、憎たらしいときだってあるし、毎日騒音にまみれているのは本当に大変。
今あるものに感謝する、のは素晴らしいことですが、あるものを鬱陶しく思う気持ちもやっぱりあるよね。
今日の絵本は、そんな気持ちをユーモアいっぱいに描いた絵本です。
どんなことも、いいことばかりじゃないものだ
ぼくはサイの鎧のような立派な皮がうらやましい。でもサイは跳ね回るウサギがうらやましくて、そのウサギはゆったりと泳ぐクジラがうらやましくて…動物の視点からそれぞれ悩みを訴える、ユニークな絵本です。
他の動物からうらやましいと言われたことについて、その動物が「とんでもない。いろいろと大変なんだ」と説明していきます。
その説明が、愚痴にも聞こえる、面白い言い回しなので、大人も楽しめちゃいます。
たとえば、サイはカッコいいと言われた鎧のような皮について、
おもいんだよ
と一蹴します。
燃費が悪い体に対し、
ぼくの ために よろいが あるのか
よろいの ために ぼくが いるのか
よく わからなくなるよ
と愚痴ります。
結局のところ、
じぶんに ないものは よくみえるけど
あったら あったで いろいろ たいへん
なのかもしれません。
うらやましいのは、いい面だけを見ているから。
実際に手に入れてみれば、全てのことは表裏一体、いい面も悪い面も付いてくる、ということですね。
裏表紙では、不満に感じていることに対して、それぞれ工夫してうまくやっている動物たちの様子が描かれています。
そうそう、そんな風に、嫌な面も受け入れてどうにかやっていくしかないもんなぁ、としみじみ思ってしまいました。
子どもたちはというと、表紙の絵を見ただけで、「あ、これぜったい面白いやつだ!」とニコニコ。
鈴木のりたけさんの絵本は、そんな認識らしいです。
最後に付いている絵探しクイズも大好評でした。
他人にとって、大変そうだな、嫌だなと思うことが、本人にとっては全然気にならない、という逆パターンの絵本「なんでもない」も、同じように面白くておすすめです。
あなたならどうする?「バジとあかいボール」
こんにちは。
3食の用意と新学期の準備に追われる春休みが終わり、やっと心の平穏を取り戻しつつあるくるみです。
今年度から子ども達が幼・小・中に分かれ、新学期のお便り大発生パニック中ではありますが…
さて。
小さい頃、イソップ童話をよく読んでいました。
ウサギとカメ。
ありとハト。
犬と肉。
アリとキリギリス。
北風と太陽。
キツネとぶどう。
(思い出すのは「○○と○○」ばかり!)
私の知っているイソップ物語のお話はすべてわかりやすい教訓があります。
地道に努力する、情けは人のためならず、欲深いと損をする…など、納得のいく教訓ばかり。
イソップ物語の影響で、物語には伝えたい教訓のようなものがある、という概念が私の中に生まれました。
日本の昔話も、さるとかにや、はなさかじいさん、おむすびころころ、など、良いことをした人にはご褒美が、悪い人には災難が降ってくるストーリーが多いです。
勧善懲悪的な腑に落ちるストーリーは読んでいて安心するものです。
「うんうん、悪いことしたらダメなんだな」と納得したい私は、どうしてこんなストーリー!?と心に引っかかる物語に触れるとモヤモヤしました。
その1つが、「浦島太郎」です。
カメを助けた心優しい浦島太郎は、ご褒美をもらえるどころか、親の死に目にも会えず、最後は誰も知り合いのいない世界でひとりぼっちでおじいさんに…。
竜宮城での日々がご褒美だとしても、割りに合いません。
浦島太郎に非があるとすれば、あっけなく玉手箱を開けちゃったことくらい。
あとは、簡単にカメの誘いに乗ってしまったこと、かな。
この物語は一体何が言いたいんだろう?と子どもながらに思いました。
玉手箱を開けずに未来の社会に溶け込むことが正解だったのかな?とか、誘惑に負けず、1日目で竜宮城を去らなければならなかったのかな?とか。
浦島太郎がかわいそうでいろいろと浦島太郎の過失を探しましたが、出てくるのは乙姫様へのクレームばかり。
恩を仇で返すようなことをして!
竜宮城に着いた時か、せめて陸に帰りたいって言ったときに説明するべき!
玉手箱なくても調べれば真実はわかっただろうに。玉手箱渡す必要ある??
そして、きっと教訓は「うまい話に騙されてはいけない」「知らない人についていってはいけない」だろう、と勝手に決めつけていたのでした。
物語に必ず教訓があるという発想がそもそも間違っているだろうし、浦島太郎の元となっている話は全く違う話なのかもしれません。
ただ、教訓でないにしろ、この物語が、時間感覚の不確かさを訴えてきた初めての物語だったのは確かです。
そして、時は戻すことができないという知っているはずのことを実感として感じさせてくれたのもこの物語でした。
時間は無限にあるように感じる子ども時代では、なかなか気付けないことを気付かせてくれるのが浦島太郎なのかもしれません。
そんなことを思った、今日の絵本はこちら。
嫌な時間も人生の一部
金曜日の歌のテストが嫌で嫌で憂鬱なバジの目の前に現れた赤いボール。それは、時間を進めることができる魔法のボールでした。歌のテストのときに使おうと、ボールを手にしたバジでしたが…。
歌のテストがあることを知って、1人、憂鬱になりすっかり元気を失ったバジは、道で赤いボールを見つけます。
それはお話で聞いて知っていた、時間を進めてくれる魔法のボールでした。
時間が進んで気がついたらテストはおわってるんだよね。
と思い、歌のテストでボールを使おうと持ち帰ったバジ。
バジが知っていたのは、嫌なことがあるたびに時間を進めてしまった主人公が、一気に年老いてしまう、というお話。
バジは話の主人公のように老いることが怖くて、ボールは歌のテストにだけ使うと心に決め、一人ぼっちのお留守番、面倒なミルクびん洗い、苦しいかけっこでも、ボールは使わずにやり切ります。
さあ、とうとう本番の歌のテストの日。
バジは赤いボールを手にし…
普段過ごしていると嫌な時間と言うものはあるもの。
寂しい時間、待っている時間、つまらない単純作業…
そんな時間を飛ばしてくれるボールにバジは希望を見出します。
けれど、時間を進めるということは果たして、自分にとって良いことなのか…
時は金なり。時は人間が消費しうるもっとも価値のあるものなり。
などというように、時間を失うことは、何より大きな損失と言えます。
そのことにバジはしっかりと気付いています。
嫌な時間を飛ばしていたら、それはつまり竜宮城で楽しく過ごした浦島太郎と同じような人生になってしまうわけです。
私が飛ばしたい時間は、大勢の前で発表しなくてはならない保護者会での自己紹介やPTAの役員決め、夕方から夜までの怒涛の家事→寝かしつけタイム。
もしボールを持っていたら、その時間を飛ばすかな…
時を飛ばすだけで、苦手なことをうまくこなしてくれるわけではないボールは、役に立たないような…
いろいろと考えを巡らせます。
飛ばした時間の中では意識を持てません。
自分の意識さえあれば、嫌な時間にも何かしら喜びは生まれるかもしれない。
嫌なことを経験することによって、自分に成長や変化が現れるかもしれない。
嫌な時間、楽しい時間、両方を含めたすべての時間が、自分の人生なのです。
ではもし、私があかいボールを拾ったら、すぐ手放せるかな?
持っていたらあかいボールの誘惑と闘う、という余分な悩みが生まれそうだから手放したいけど…
年に1回と決めてどうしても嫌な時間だけ飛ばせたら、実際に飛ばさなくても飛ばすことができると思うだけで勇気をもらえるような…
と、悩んでしまう私なのでした。
みなさんもぜひ。
世界って大きいんだね「おかあさんともりへ」
こんにちは。
夫が「もしお金に困ってなくて好きなことをして暮らせるならどうする?」と聞くので、「クラフトビール飲みながら、本読んで暮らしたい」と言ったら、「メンタリストDaigoとほとんど同じだね」と言われ、それ以来メンタリストDaigoに妙に親近感を抱いているくるみです。
彼はビールではなく赤ワインだそうですが。
さて。
子どもの頃。
自分の経験や常識は、世界共通のもののように感じていました。
たとえば、父親は母親より年上である、とか、朝ごはんにご飯を食べる、とかそんな些細なことです。
少しずつたくさんの人と触れ合う中で、自分の目にしてきたものがただの1例に過ぎないことを知りました。
子どもの頃、と言いつつ、私はあまり世間を知らずに育ち、かなり大きくなっても固定観念に支配されていました。
社会人になってから、1日2食でランチを食べないという会社の先輩に、「なんで食べないんですか?!」と、必要以上に驚いて聞いてしまったこともあります。
そして、今もたぶん、まだまだ私の世界は狭く、凝り固まった部分があるのだろうと思います。
自分の体験してきたことは世界からしてみればほんの一部に過ぎないこと。
時間的にみても、空間的にみても、全体からみたら点のようなもの。
そんな当たり前の事をわかっているようで、大人もなかなかわかっていないのです。
今日の絵本は、世界の広さ、多様性、予想できないたくさんの可能性に思いを馳せることができる、素敵な1冊です。
せかいっておおきいんだね
朝、ヒヒの赤ちゃんのバブーンはお母さんの背中で目を覚ましました。バブーンはお母さんと森で1日過ごします。たくさんのものを目にしてバブーンが感じとった世界のすがたとは?静かな会話と明るい色彩で描かれた魅力的な絵本です。
森で、バブーンは興味深くいろいろなものを目にします。
カメの歩みののんびりさ。
炎の熱さ。
草のやわらかさ。
カメを見たバブーンはおかあさんに言います。
「せかいって、ゆっくりなんだね。」
それに対し、おかあさんは、
「ゆっくりの ときも あるのよ。」
と答えます。
その繰り返しの物語です。
このおかあさんの「○○のときもあるのよ」という表現が心地よくて、私は一気にこの絵本が好きになりました。
バブーンは見たものを「世界=○○」と、無邪気に学習しようとします。
そんなバブーンを否定せず、多くを語らず、「そういうこともあるよね」、と返す大らかさと誠実さに心を動かされます。
世界は、言葉で表すことができないほど、広く、たくさんの物事を含んでいる。
体験したことも事実だし、それ以外のことも、たくさんある。
バブーンのお母さんの態度は、これからたくさんの体験を通してそのことを知っていく子どもを、見守る親の態度としてあるべき姿のように思えます。
ひめは、すぐに決めつけてしまうバブーンを笑い、最後に
「せかいって おおきいんだね」
と言ったバブーンに「やっと正しいことを言ったね~」とコメントしていました。
力のある鮮やかな色彩で描かれた絵は魅力的で、バブーンのつぶらな瞳も可愛いです。
このタッチ、どこかで…と思ったら、ペネロペやリサとガスパールを描いている方でした。
まだまだ読んだことのない素敵な絵本がたくさんあるんだ、と思わせてくれた大好きな絵本です。
みなさまもぜひ!
女性に長距離は無理!?「炎をきりさく風になって」
こんにちは。
バナナの皮を剥いて食べながら、「バナナさん、はだかんぼう」とぽつりと言ったちび。裸にされて噛りつかれるバナナが少し不憫に感じられたくるみです。
今日は国際女性デーだそうです。
ここのところ、ジェンダーの問題についての本を数冊読んで、考えることが多いです。
その大きなきっかけとなった本が「問題のだらけの女性たち」という本です。
この本は19世紀の女性たちが、いかにバカバカしい迷信と固定観念に苦しめられていたのかをイラストと言葉で皮肉に描いた本です。
読む本というより文字数も少なく大人の絵本という感じです。
ぱっと見ののポップさからは想像できない、衝撃的な内容の風刺です。
かつて世界には女性が存在していませんでした。
だから歴史の授業で女性の偉人について習わないのです。
男性は存在し、その多くが天才でした。
その後、女性が少しだけ誕生するようになりました。
でも、脳がとても小さかったので、刺繍とクロッケー以外のことは
なんにもうまくできませんでした。
このような感じで女性への偏見、差別を淡々と語っていきます。
衝撃的なのは、ソクラテスなどの偉業を残したような人、科学を牽引したと思われる科学者までが、女性について、身体的欠陥があるように表現していること。
「そんな偏見があって、科学的な目で物を見られるものですか?」と問いたくなります!
皮肉たっぷりに書いてあり、「えーありえないでしょ。」と苦笑して突っ込んでいたのもつかの間、途中から全然笑えませんでした。
ふつふつと怒りがこみ上げてきます。これが現実世界で行われてきたのかと思うと…(怒)
読んでいると、「地動説なんかは、きっと察しのいい女性はとっくにわかっていたけど、男性の弾圧や暴力を恐れて口にしなかっただけなのではないか」などと根拠なく推測したり。
自分の虚栄心や闘争心を満たすために戦争するのも、だいたいは男たち。
人間の歴史は男性のせいで品位を失ったのではないか…とか思ったり。
かなりの男性不信になりました。(これはこれで偏った見方ですね…すみません)
思えば私は、男性と女性で、考え方や身体的能力が違うことに前から興味がありました。
昔、流行った「地図の読めない女、話の聞けない男」は、私は地図は結構読めるしなぁ、と思いながら読んだものの、「察しない男 説明しない女」はブンブンうなずきながら読むほど私たち夫婦のことを言い当てていました。
そして、黒田伊保子さんの「夫のトリセツ」「妻のトリセツ」を読んで、もっとお互いに歩み寄らないといけないな、と思ったり。
ジェレド・ダイアモンドさんの「人間の性はなぜ奇妙に進化したのか」を読んで、男性に対して失望したり。
何か腑に落ちないものがずっとあったのだと思います。
間違いなく、個人差レベルではなく男女の性質に差はあるのだと思います。
でも、それは優劣ではないはずです。話が長い、のも劣っているわけではないのです(笑)
世界は、性質の違う者同士が誰でも住みやすい社会を作ろうという方向にあります。
日本はどうでしょう?
「問題のだらけの女性たち」を読んで笑えなかったのは、たぶん、なんとなく屈辱感が現代の日本でも続いているからだと思うのです。
最近では東大入学式の上野千鶴子さんの祝辞や、ブロガーさんおすすめの韓国映画の原作「82年生まれ、キム・ジヨン」を読んで、やっぱり現在進行中だ、と改めて思ったり。
今日の絵本は、「マラソンは女性には無理」が当たり前だった時代の話です。
最近はにーさんは絵本読み聞かせに参加していませんが、男の子にこそ読んで欲しい1冊です。
身の回りの「マラソン」に目を向けて
ボビーは走ることが大好きだった。友だちがみんな走るのをやめても、走るなんて「女らしくない」と言われても走りつづけた‥今では毎年12000人以上の女性が参加するボストンマラソン。たった50年前には女性は参加することすらできなかった。その歴史の最初の一歩をふみだした、ボビー・ギブの物語です。
今日はネタバレ多めなので、新鮮な気持ちで絵本を読みたい方はこの先は読まないでください。
女性に長距離は無理です。
その昔、そう言われていました。
昔と言ってもたった50年前!
周りに何と言われても、走るのことが好きで、諦めなかったボビーは、ボストンマラソンに男装をして挑みます。
両親にも反対されていたボビーは、当日父親にスタート地点に連れて行ってもらえず、絶望に打ちひしがれます。
その後…
「さあ、行くわよ」
お母さんだった。
この場面で私は涙が出そうになりました。
誰もが敵に回っても、味方になってくれる人の温かさに。
そして、ボビーは走ります。
走って熱くなったものの、変装に使っていたパーカを脱ぐとつまみ出されちゃうかも、とボビーが迷っていたとき、隣りのランナーの男性が言います。
「そんなことはさせないさ。誰が通ったっていいんだ、この道は」
そうなんです。 実際は敵ばかりではないのです。
偏見や思い込みで決めつけ、押さえつける人は一部の人で、個人レベルでみればわかってくれる人はたくさんいます。
女性の問題に限らず、マラソンの問題にも限らず、一歩踏み出せば多くの人に理解してもらえるものなのだ、そんな勇気をもらえます。
これがたった50年ほど前の話なのです…
LOVE2000を聴きながら踊るキュウちゃんや、自分で自分をほめてあげたい有森さんのインタビューをテレビで見て育った私には、衝撃的な話でした。
きっと身の周りにもまだ、たくさんのマラソンのようなものが存在します。
女性に対してだけでなく、虐げられたり無視されている権利はないのか、と問うきっかけになりそうな絵本です。
今ある物を慈しむ心「いえ」
こんにちは。
この時期は毎年、目が痒くて、鼻もムズムズする。それでもまだ自分が花粉症ではないと信じる気持ちを捨てきれないくるみです。
でも、今年はもうダメかも…
さて。
我が家のリビングルームを見回すと、私の本、夫のトレーニングマット、にーさんのイヤホン、ひめの工作、ちびのおもちゃ…
狭い部屋に5人の物が所狭しと置かれています。
しまい切れずに出ているもの、しまっているのかわからないくらい無理やり詰め込まれた棚。
どうしてこんなに物が多いのでしょう。
にもかかわらず、だんだん温かい風を感じることが増え、新しい季節の到来に心躍り、新しい服が欲しくなる私。
スマホでスナップを見ては、あれも欲しいな、これもいいな。
新しいスニーカーも欲しいなぁ。
なんて。
ちょっと待って!
「足るを知る」生活を目指すのでした!
以前流行った「フランス人は10着しか服を持たない」を読んだり、スッキリと暮らす素敵なブロガーさんや、おしゃれに暮らすママ友の影響を受けて、「足るを知り、本当に必要なものでなければ買わない」と心に誓ったはずでした。
中学に上がるにーさんの、新生活に必要なものを揃えているうちに感覚が麻痺してきたみたいです。
ついつい新しい物に目がいってしまいます。
今のままだって十分に生活できているのに。
新しいものはどうしてこんなに輝いて見えるのでしょう。
物を買うときが、その物に対しての愛がピークという話を、聞いたことがあります。
ほんとにそうかも、と思うこともしばしば。
愛情は、すでに自分が手にしているものに使いたいのに。
今ある自分の持ち物に愛情を注ぐこと。
今の生活に満足、感謝すること。
今日はその大切さを思い出させてくれた絵本です。
いえが目をあけたよ!
散歩中に友達のオオカミくんにあったノウサギさんは、暗くて寒く、その上ドアが壊れている自分の家の代わりに空き家を探してもらうようにお願いします。オオカミさんを待つ間に家を掃除し始めたノウサギさん。自分の家が見違えるように住みやすくなり…。場面場面がよく表された絵と淡々と短い言葉で大切なことを語るノウサギさんが魅力的な絵本です。
オオカミくんを待つ間、ノウサギさんは自分の家を柔らかいきれで磨きます。金槌もペンチも使わず、ただきれいにしていきます。
うれしいな。どんどんぴかぴかになる
ドアも直り、暖かさと明るさを取り戻したノウサギさんの家。
ほーらね。いえが 目をあけたよ!
いい表現ですね。
ゆうぐれの ひかりが はいってきて、いえは にぎやかに なりました。
光をにぎやかと表現するのも素敵です。
最後に、ノウサギさんは、家のありがたさに心から感謝します。
ノウサギさんのために空き家を一生懸命探してくれたオオカミくんに、「あきやは もう いらなくなったの」とさらっと言うノウサギさん。
その少し残酷にも感じる素直さ、素朴さを持つノウサギさんだからこそ、最後の家に対する感謝の大きさが際立ってきます。
本当に心から気付いたのだろうな、と思えます。
工作の材料を散らかしているひめは、自分のことは棚に上げ、「ノウサギさん、どれだけ汚くしてたんだ~!」と笑っていました。
ちびは「うさぎさん、かわいいなぁ。おうちに1人でかわいそう。さみしくないのかなぁ」といつものようにウサギ愛が止まらない様子でした。
私は、静かな夜に優しい雨の音が聞こえてくるようなラストが大好きになりました。
このシリーズ、どれも味わい深く、心に残る内容なので、またいつか紹介したいと思います。
とてもおすすめです。
法則を見つける快感「ふしぎなきかい」
こんにちは。
♪あかりをつけましょ ぼんぼりぼん♪ と歌うちび。ぼんぼんりぼん(サンリオ)が頭に浮かび、笑ってしまうくるみです。
さて。話は変わって。
数学はお好きですか?
学生時代は問題を解くことに必死で、テストの点が気になって、好き嫌いという観点すらなかった私ですが、小川洋子さんの「博士が愛した数式」を読んでから、数字の神秘に惹かれるようになりました。
最近では、冨島佑允さんの「日常にひそむうつくしい数学」という本と出会い、身近に潜む数字の奥深い世界に触れて、畏敬の念を抱いています。
例えば、ハチの巣が六角形なのは規則正しく並べることができるだけでなく、壁の面積を最小限に抑えて、広い空間を作ることができるから。
つまり、六角形にすることで、最小の材料で、丈夫で広い部屋を作ることができるのです。
計算などしないハチが、自然界で本能的に行っているのがすごいです。
そして、数学のすごいところは、その事実を魔法のように数字を使って導くことができること。
「この公式とこの公式を当てはめて考えると…ああ!ほんとだ!」と、満足できる解が明確に得られることではないかと思うのです。
あれもこれも整然と収まる美しさ。
中でも、フィボナッチ数列と自然の関係が好きです。
巻貝の模様や、木の枝分かれ、葉の付き方…
一見、ランダムに見えるものが、きれいに数字と合致する奇跡に鳥肌が立ちます。
数字は人間が勝手に決めた人工的な記号のはずなのに。
不可解で混沌として見える世界に規則性を見つけること。
数学や理科の面白さの真髄はそこにあるのではないかと思うのです。
予測できない世界の一部が、自分の理解内に収まるのは嬉しいものです。
法則を見つける喜び。
規則性を見つけてしまう人間の本能。
今日はそんな、生まれつき備わっている規則性探しの本能を刺激する絵本です。
法則を見つける快感
小人が素敵な魔法の機械を発明しました。左の入り口から、何かを入れると、右の出口から違ったものになって出てきます。左から眼鏡を入れると、右に目の付いた眼鏡が。どうやら目鼻が付く機能のよう。チャンネルを変えると機械の機能も変わり…。今度はどんな機能かと考えるのが楽しい絵本です。
左から入れたものと出てきたものが見開きのページに示され、どんな変化なのかを考えられる絵本です。
ページをめくるたびに機械のチャンネルが変わり、法則も変わります。
4歳でも分かるものと少し難しいものがあり、次はなんだろう、と好奇心を掻き立てます。
ちび 「たくさんになってる!」
ひめ「1つ多くなってるんだ!」
やっぱり、8歳の方が法則の細かい点まで気付けるらしく、その違いも見ていて面白かったです。
安野さんの緻密で優しく品がある絵が素敵で、内容がすっと入ってきます。
最後の展開や絵もユニークです。
昔からある絵本は、なぜこんなに静謐な雰囲気と奥ゆかしいユーモアとを合わせ持った絵本が多いのでしょう。
言葉遣いのせいでしょうか。
法則がわかっても何度も読みたくなる絵本です。