魔法はかけられたまま「まほうの夏」
こんにちは。
今年はスイカを食べなかった!と気付き、心残りのくるみです。
スイカと言えば、「まるごと食べたい!」と思ったことはありませんか?
子どもの頃、私はそう思っていました。
そして、私のその願いは、九州の伯母の家で叶えられました。
みかん農家をしていた伯母は、みかん以外にも野菜や果物を自家用に育てていて、すいかもその中の1つでした。
家の前でごろんごろんと転がっているそのスイカを見て「1こをそのまま食べてみたい!」と言う私に,「食べてもいいよ。でもそんな食べ切れんやろ」と半分にしてくれました。
膝で立って大きなスプーンでザクザクと食べたスイカは、やっぱり半分も食べ切れなかったけれど、自分の顔以上の大きさのものを食べている楽しさは、いまだに覚えています。
最後はおなかがタプタプでした。
そんな風に小学校の夏休みは、毎年のように九州の伯母の家で過ごしました。
家の前は田んぼと畑。後ろは山。
隣の家は見えないほど遠い。
家の中で走り回っても、どんなに大きな声を出しても、汚れた服で家に上がっても、誰にも何も言われない。
海水浴へ行き、トラックの荷台に乗ってみかんの水やりに付いていき、ビニールハウスの周りでバッタを捕まえて、浴衣を着替えて公民館の夏祭りで盆踊りを踊る。
家に帰ると近所のおばあさんが勝手に入って座って待っていたり、近所の女の子が「ま~た来たで~!」と遊びに来たり、みんな方言を話し、声も大きくて。
薪でお風呂を炊いたり、お風呂上がりによく冷えたみかんジュースを飲んだり。
お刺身も野菜も新鮮。
伯母の作るナスの味噌汁は苦手だったけれど、白ウリの浅漬けや手作りこんにゃくが美味しかった。
そんな特別な毎日を過ごしました。
自分が子育てをして初めて、子どもを預かるということがどれだけ大変かを知り、伯母のありがたみが心に沁みます。
あの思い出はかけがえのないものです。
普段市街地に住んでいる子どもにとって、いなか町だからこそ、親の目が届かないからこそ、非日常の、きらきら輝いていた日々。
それは、魔法のような日々です。
わが子たちにはそんな田舎がなくて残念ですが、少しこの絵本でおすそ分けしてもらいました。
かかってしまう魔法
夏休み。弟と2人でお母さんのいなかへ行った。海辺の町だけど、森もあった。川もあった。友だちもできたよ。僕たちを真っ黒にした―まほうの夏だった。
高い建物に囲まれた町で、ボーダーTシャツのお兄ちゃんと麦わら帽子が大きすぎる小さい弟。
学校のプールとゲームと麦茶。それとポテトチップス。
夏休みのよくある風景。
退屈している兄弟におじさんからハガキが届きます。
歓喜する兄弟の嬉しそうなこと。
イヤッホー!
と、飛行機に乗ってお母さんのいなかに遊びに行きます。
虫取り、海水浴、早起き、スイカの種飛ばし、小商店でのお買い物、魚釣り…
白い肌の兄弟は、地元の子供たちやおじさん達と遊び、真っ黒坊主に大変身。
題名通り、魔法がかけられたような、最高の夏休みが描かれています。
ずっとここにいたいと思い始めたお兄ちゃんでしたが…
こういうことってあるよね、という最後もクスっと笑えます。
どうぶつの森好きのひめは魚釣りの場面で「すごい!やってみたい!」と反応していました。
食いしん坊のちびはアイスキャンディーの場面で「いいなぁ!」
アイスキャンディーという言葉の響きが、いなかの昔の夏を思い出します。
私も祖母からもらった小銭を握りしめて、従姉妹と本屋さんにアイスを買いに行くのが嬉しかったなぁ。(本屋さんになぜかアイス!)
食べてる途中から溶け始める、棒アイス。
懐かしいなぁ。
私は過ぎし日の記憶を重ねながら、子ども達ははじめて経験する冒険のように、楽しんで読めました。
考えてみると、町育ちの私が「となりのトトロ」やいなかの風景を見て、尊く感じるのは九州での夏があったからなのだと思います。
町は町で便利で近代的で、洗練されていて、人の手、人の情熱によって造り込まれた大人の楽しみがたくさんある。
とても暮らしやすく、大好きだけれど…
農村回帰主義などではないのだけれど、心のどこかでいなかを崇拝する気持ちがあります。
今では虫も、汚れることも、力作業なども苦手になったくせに。
勝手だとは知ってるのだけど、ふとしたときに、心がいなかの景色に触れたがっている気がします。
九州で子ども時代を過ごし、東京に出てきた父も「本当は老後は田舎で暮らしたい」と飲みながら言ったことがありました。
いなかの魔法でしょうか。
帰りたくなる場所になる魔法。
夏の終わり。
今は亡き伯母を思い出し、今年もキラキラした夏にさよならをします。