3つのたねに絵本の水を

日々思ったこと、子育てエピソードと共に、3人の子供たち(にーさん(小6)ひめ(小2)ちび(4歳))に読み聞かせた絵本を1冊ずつ紹介しています。

名前が欲しい=…?「なまえのないねこ」

こんにちは。

また更新が滞ってしまいました。

子どもと読んでいる絵本の数は以前より増えていて、下書きばかりが増えています。それなのに全然更新ができず、溜まる一方…焦るくるみです。

 

さて。

最近、村田沙耶香さんの本が好きです。

村田さん、「クレイジーさやか」と呼ばれているらしいですね。

そのクレイジーな世界にどっぷりはまるのが楽しいです。

クレイジーでもないような…と思いつつ、やっぱりクレイジー過ぎる、と思ったり。

 

「クレイジー」って何なんでしょう?

クレイジーと感じるのは普通だと感じている価値観があるから。

村田さんの小説は、普通だと思っていることが本当に当たり前なのかを考えるきっかけをくれます。

 

当たり前のこと、といえば。

例えば、私たちに、生まれつき名前があること。

私たち人間は生まれた時必ず名前を付けられます。

 

住民票に登録し、教育、納税の義務を果たすための名前。

それはまあ、社会的に必要な記号的役割ですが、名前の役割の神髄は、他と区別し呼んでもらうこと。

 

米津玄師さんも「アイネクライネ」 で言っています。

あなたの名前をよんでいいかな

 

誰かを必要とし、大切な存在として他と区別すること。

 

一方、地球上の生命体のほとんどは名前など付いていません。

乳酸菌1つ1つについて。

蝶一匹について。

そこここに咲くぺんぺん草のひと株。

 

人間以外の動物で、他の生命体に名前をつける動物はいるのでしょうか…

逆に、言葉という記号がなくても、周りの世界を認識できることが、すごいことにも思えます。

 

普段人から名前を呼ばれているペットの犬などは、しっかり名前というものの使い方を理解できているはずだけれど。

動物にとって名前を呼ばれるのはどんな気持ちなんでしょう。

名前を呼ばれるのは、やっぱり嬉しいものなのかな。

 

今日の絵本は名前のない1匹のネコのお話です。

 

名前が欲しい=…?

ぼくには名前がない。知っている近所のネコにはみんな名前がある。いいな。ぼくにも名前欲しいな。町を1人歩くネコが本当に欲しかったものとは?なんてことのない名前というものが大切に思えてくる1冊です。

 

表紙をめくると裏表紙に描かれたたくさんのネコ。

 

安直だったり、2つあったり、それぞれですが、みんな名前があります。

  

一方、主人公のネコには名前がありません。

こんなネコ散歩中にみたことある!と思うようなリアルな絵が素敵です。

太ったネコの貫禄。肉のたるみ具合も、触れそうなほどリアルです。

 

ちいさいときは ただの「こねこ」だった。

おおきくなってからは ただの「ねこ」だ。

 

なんだかさみしい孤独なネコ。

 

名前のないネコというと、「吾輩は猫である」を思い出し、なんだか自由なネコのイメージがあって、名前なんていらないんじゃないかと思ったりもしますが、このネコは名前が欲しいみたい。 

我が家の女子2人は、このネコにすっかり同情して、「かわいそう」とか「私が名前つけてあげる!」と張り切ってネコの名前を考えたりしていました。

 

そして、ネコは、とても大事なことに気付きます。

 

たかが名前。

けれど名前を呼ぶ、ということは、その存在を他と区別するということ。

唯一の特別な存在として認められる、ということ。 

 

この当たり前の、大切さについて思いを馳せられる絵本です。

(個人的にはネコは名前がないのも似合う気がするけど…)

ネコの愛らしさを描いた絵にも注目です。

なまえのないねこ

なまえのないねこ

  • 作者:竹下文子
  • 発売日: 2019/04/25
  • メディア: 大型本
 

 

季節の移ろいを感じながら「はるとあき」

こんにちは。

米津玄師の歌が好きなちび。

時々、急に歌詞が耳に入ってくるらしく、「悲しいんだって。なんでだろうね?」などと、言います。

「工事しててお家に入れなくて、悲しいのかな?」というちびに、「悲しい」と聞いて最初に思い浮かぶのがそれ??と思ったくるみです。

 

さて。

急に、朝晩寒くなりましたね。

だんだんと早朝ウォーキングするのに、布団の誘惑という試練を超えなければいけなくなってきました。

 

年を追うごとに、自分にとっての適温の範囲が狭くなっているような気がします。

 

暑さでヒーヒー言っていたのに、すぐに寒さに震える。

そんな感じで1年が過ぎていきます。

 

寒くなると暑い夏が、暑くなると寒い冬が、まるで嘘のように感じられ、本当にそんな日があったのだろうかと不思議な気持ちになります。

 

足して2で割って、ずっと過ごしやすい季節ならいいのになぁ。

 

けれど、この変化、四季こそが日本の自然や文化や食事を豊かにしてくれているのですよね。

 

桜の花が満開になって散り、雨に咲く紫陽花、向日葵の花が高く高く伸び、葉が赤くなり、道を落ち葉が染め、椿の花が咲き、霜柱をザクザクと踏む音。

 

秋には桜の花を見れないし、春には赤い葉は見られない。

 

そんな日本では当たり前の四季の移ろいを題材にした、幻想的で可愛い絵本がありました。

 

会ったことのない友だち

春夏秋冬が人として描かれています。主人公のはる。ふゆに起こされ、なつと交代して、次の春まで眠ります。ある年、はるは会ったことのないあきに手紙を書くことにしました。春の様子、秋の様子。日本の四季の美しさを感じつつ、違うものそれぞれの良さについて考えられる絵本です。

 

4つの季節が擬人化されているのが面白いです。

それぞれ、性格も違っていて、なつは「すかっとした魅力がある」、ふゆは「きりっとしている」と自分のことを表現しています。

 

はるとあきは、なつとふゆに届けてもらい、1年に1往復の文通を始めます。

 

相手の手紙の文面から、お互いの季節を知ります。

満開の桜の花や、いちご。

あきは春の風景を想像します。

紅葉や虫の声。 

はるは秋の風景を想像して、楽しんでいます。

 

ところが、ある年、はるは自分との文通はあきにとっては退屈なのではないか、と不安になります。

 

違う景色に囲まれている、はるとあき。

ずっと会うことができない、はるとあき。

 

人間は、どういう人と友だちになるのでしょう。

趣味や性格が似ている者どうしが友だちになることもあるし、全然違う者どうしが友だちになることもある。

一見違っていても、実は似ているところがあったり。

 

また、一緒にいられないと友だちにはなれないのものなのでしょうか。

 

じぶんにも いいところが あるって きづけたよ 

というあきの言葉が印象的でした。

自分にとって当たり前だと思っていたことが人にとっては特別なこと。

それを知ることで自分の価値や個性を認識することできます。

 

ふゆのセリフにもほっこりします。

外から客観的に見ると気付くことも、たくさんありますね。

 

違っても同じでも、会えても会えなくても、友達でいることはできる。

そう思わせてくれる絵本でした。

 

 

ひめは春夏秋冬それぞれの女の子の特徴が気になったようでした。

ひめのイメージは春と冬は女の子で、夏と秋は男の子、とのことです。

 

この絵本では全員女の子で夏と冬はショートカットです。

表紙と裏表紙の見開きで4人が描かれていて、それぞれ季節のものに囲まれています。

イチゴにつばめ、朝顔とひまわり、リスに落ち葉、雪と白い山。

 

同じ場所でも季節によってそのときしか見られないものがある、という自然の豊かさを感じます。

 

個人的にとても好きな絵本でした。

皆さまもぜひ。

はるとあき

はるとあき

 

 

赤ちゃんにもしっかりとした意志があるという感覚「赤ちゃんのようじママのようじ」

こんにちは。

「ママも‟しょうどく”してね」とお風呂でちびに水をかけられ、ごっこ遊びにも時代を感じたくるみです。

 

さて。

今日は子育てについて、少し語ってしまいます。

 

ブログでも何度も書いているような気がしますが、3人の親となっているものの、私は子どもを育てるということについて、まるで無知でした。

 

というより、何かを真剣に「育てる」こと自体がほぼ初体験。

会社でも、後輩とは友達感覚で、頼ったり頼られたりしていました。

 

生まれつきの末っ子気質。

世話はするよりされる方。

動物を飼うこともままならず、植物のお世話もできない私。

甘えてなんぼ、頼ってなんぼ、の人生を送ってきた私に、訪れた試練が「子育て」です。

 

子育てなんて人間の数だけみんながやってきたんだからきっと自分にもできるだろう、と甘く見ていた私。

 

一口に子育てといっても、要は、人と人。

無数のケースが存在し、 一括りにできないもの。

親の性質と子どもの性質によって、無数の組み合わせが存在する。

 

ということも知らず、実際に子育てをしてそのことを学びました。

 

子どもの性質だけをみても、

よく寝る子。全く寝ない子。

離乳食をよく食べる子。全力拒否の子。

元気な子。病気を患っている子。

ご機嫌な子。癇癪を起こす子。

積極的な子。慎重派な子。

 

その他項目は数知れず。

それぞれの項目の中でも2極の間に無数のレベルがあるわけです。

 

「育てやすい・育てにくい」と言ってしまうと、親の勝手な指標だろうと批判もあるでしょうが、3回の子育てを経験した拙い私見では、「育てやすい・にくい」という観点は間違いなく存在します。

 

親の性質との相性ももちろんあるでしょうし、「育てにくい」=「悪い」では決してありません。

 

植物だって、手間がかかり、「育てにくい」けれど、きれいな花で人を癒すものもある。

ここでは「育てにくい」けれど、環境が違えば「育てやすい」と感じるような植物もありますよね、きっと…

(植物について詳しくないのに例に挙げてしまって申し訳ないのだけれど)

 

なので、あくまで1つのケースとして、読んで欲しいのですが…

 

 

私にとって、にーさんは育てにくい子でした。

 

それが初めての子だったので、子育てとはこんなにも大変なことなのか!!と何度となく衝撃を受けました。

寝ない、食べない、熱出す、薬は飲めずにすべて吐き出す、後追い、人見知り、癇癪、天邪鬼…

 

その中でも、6カ月くらいまでの赤ちゃんにとって、寝るか寝ないかは子育ての大変さを大きく左右する項目だと思います。

 

にーさんは、とにかく、まあ寝ない子でした。

 

抱っこで寝ても布団に降ろすと99%起きる。

1%で寝たとしても、ティッシュをとる音でも起きてしまうほど音に敏感でした。

だっこひもなどは体を反って全力拒否。

とにかく、自分だけの力で抱っこして、泣くのでスクワット運動を繰り返す日々。

いまだに家の窓から見える街灯が頭に浮かびます。

 

眠れないと癇癪。

ご機嫌の時間は本当に貴重でした。

 

困り果て、眠れない子の対処法を調べて、ほとんど試しました。

生活リズムを整える、外遊びをさせる、クラシックをかける、背中をトントン、おでこを撫でる、絵本の読み聞かせ、寝たふり、もういっそ寝かしつけずに起こしておく、車でドライブ、寝ろ〜というプレッシャーをかけないように違うことを考える…

 

その方法の中に「泣き疲れて眠る」というものがありました。

どんな子でも泣き続けると疲れて眠る、という理論です。

泣く姿に同情せずに耐えて、疲れるのを待て、という方法でした。

 

泣かせることが罪悪感を生むあげく(場合によっては近所迷惑も)、一日の最後に泣き疲れて寝た我が子の罪のない寝顔を眺める、という母親にとって恐ろしい結末の、悪魔の寝かしつけ法です。

 

ありとあらゆる方法を試してうまくいかず、とうとう悪魔の方法に手を出した私。

 

結果、彼は1時間半、ぶっ通しで泣き続けました…。

 

途中心配になってマグをあげたり、あまりのことに熱を測ったり。

結局どこも悪くなく、ただただ、抱っこしてもらって寝たいだけなのでした…。

 

1時間半泣き続けられるって、相当です。(私の知る限り、なかなかないです。)

その後抱っこしたらいつもより早く寝て、ほっとして涙。罪悪感。

 

そして、私は悟ったのです。

寝ない子は寝ない。

親がこうして欲しいと思っても、簡単にそうなるわけではない、と。

 

この、1人では食べることや寝ることさえままならないような、小さい生き物にも、強い意志が存在しているのだ、と。

 

正直、このことを知ったことは、私の人生にとってとても大きな出来事となりました。

2つの大きなことを学ぶことができたからです。

 

人は変えられない。変えられるのは自分の意志と行動だけ。」ということ。

そして、「自分にとっては不本意でもある、眠りたくない子供の眠りたくない(眠ることができない)性質を、親は認めて受け入れなければならない。恐怖政治で変えることはできないし、すべきではない」ということ。それこそが個性を認めることであり、「みんな違ってみんないい。」ということなんだということ。

 

このことは子育てには限らないことだと思います。

きっと、子どもを育てなくても、様々な人間関係から学んで知っている人は多いのでしょう。

私が子供から初めて学んだ、というだけで。

 

子どもを産む前に学んでいられたら、もっと寛容な心でただただ可愛がりながら、にーさんを育てられたのかもしれません。

そう思うと、にーさんに申し訳ない気持ちになります。

眠くて、重くて、へとへとに疲れていて、イライラして、寝かしつけしてしまった日々。

「あなたはほんとにうまく眠れないんだね」と笑う余裕がなかった私。

 

この絵本のママには、赤ちゃんにも赤ちゃんの用事があると思う感覚があって、それがとても素敵で、にーさんのことを思い出しました。

 

いまだに細かいことでイライラしてばかりの私ですが、にーさんの小さい頃を懐かしく思い出しながら読んだ絵本です。

 

赤ちゃんにも用事がある

赤ちゃんのハンナははいはいが得意。「ハンナ止まって!ママはご用事があるの」とママが言っても関係なし。すばやくハイハイするハンナと抱きとめるママのやり取りが温かい絵本です。

 

積み木で遊んでいてと言われても、海辺のカニさんよりすばしこくはいはいで出ていくハンナ。

ママの体操を見ていてと言われても、棚にある本をほとんど引っ張り出して、のはらのネズミさんより素早く逃げ出す。

電話の間、そばで遊んでいてと言われても犬のジェイクのそばまでキノボリトカゲより速くはいはい。

はたけのウサギさんより速くはいはいしてキッチンの鍋を散らかします。

 

「ハンナさん それも あなたの ごようじなのね」

という、ママ。 

 

絵はあまり可愛い感じではないけど、ママの愛が溢れています。

 

育児中、ママは赤ちゃんがいるとトイレも自由にいけません。

 

「用事」とは、しなければいけないもの。

 

トイレに、仕事や家事に、人間関係に、食事に、美容に…

特に自分がしたいわけでもないものも含めて、大人にはたくさんの用事があります。

したいことができなくなるわけではなく、しなければ生きていけないことさえもままならないもどかしさ。

当たり前にできていたことが、拘束されることの不自由さ。

 

けれど、それは赤ちゃんも同じなのかもしれません。

たくさんのことを五感で感じて成長する、その興味こそが用事。成長の糧なのです。

 

このママはハンナに対して、

それもあなたのごようじだったのね

 と言います。

 

ママに用事があるように赤ちゃんにも用事がある。

そう思える感性に、はっとします。

 

絵本をひろげ「これは ふたりの ごようじね」というママ。

絵本にはこれまでの動物たちが登場します。

 

キノボリトカゲという我が家ではなじみのない動物がここで再び出てきて、ひめは「絵本に出てくる動物だったんだね!」と喜んでいました。そんな小さな発見が絵本を楽しくします。

小さい子が好きなひめは、ハンナの様子にちびを重ねて、「ぜんぜん言うこと聞かないね(笑)」と楽しそうでした。

 

そう、ちびは自由奔放。

たぶんにーさんの時より、寛容になっている私。(年のせいもありますが・・・)

 

同じ親の子育てでも変化はするもの。

成長なのか、老化なのかはさておき、子育ては人と人との関係です。

人は時とともに変わる流動的なもの。

その時その時の精いっぱいの自分をぶつけることしかできないと慰めながら、今日も過ごすのです。

 

 

長くなってしまいましたが…

大人の用事と子供の用事を天秤にかけ、大人に軍配が上がる、と考えている全ての人に、読んでもらいたい絵本です。
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学校に行きたくない気持ちを肯定する「このままじゃ学校にいけません」

こんにちは。

パッと光って散った〜♪

「オーケーグルグル よねずけんしの はなび ながして」と言うのが口癖のちび。

永遠にリピートされる「打上花火」に頭がおかしくなりそうなくるみです。

いい曲でもずっと同じだとちょっとね…

 

さて。

にーさんの小学校生活はあと半年で終わろうとしています。

一時期、頭を悩ませたこともあったけれど、無事6年間通えそうでホっとしています。

 

一方、ひめは小2。

自分と同じ性別ゆえにわかる、女子社会の世知辛さ。

最近ふとした時に「休み時間遊ぶ子いないし」などとつぶやき始めたひめが少し心配です。

 

 みんなと仲良く。

 友だち100人できるかな。

 目指せ、一致団結!チームワーク!かけがえのない絆!

 

そんな価値観が自然と植え付けられていた私。

嫌われないようにうまく立ち回って、友達の多い子をうらやましく思っていました。

 

社会人になってから、適度にそれなりに合う人がいればいい、友だちはそんなにいなくても大丈夫、ということに気付き、とても気が楽になりました。

 

さらに数年前に「友だち幻想」という本を読んで、大いに共感し、子どもにも伝えたいと思いました。

 

 100%わかり合える人などはいない。

 どんなに親しくなっても他者である。

 ということを意識した上で、信頼感を築くこと。

 分かり合えない人がいても、ぶつからず、自分も相手も否定せずに、適度に距離を置き、うまくやっていく力を付けること。

 

以前の価値観からすると、合理的で冷たく聞こえるかもしれませんが、そう思って生きることは全然悪いことではなく、むしろ現代の世の中に適応している考え方とのこと。

 

他者とうまく付き合うのは、自分がより良く生きるためです。

他者の邪魔もせずに自分のやりたいことを実現できるように生きるために。

なにより大事なのは折り合いを付けること。

 

 

今日は、その折り合いをうまくつけられない、1人の少女の物語です。

 

動物に擬態してやり過ごすエディの1日

エディは学校に行きたくない気分。友だちとも話したくなく、授業も受けたくない。1人でブランコに座って考え事。友だちにタックルして校長室へ連行されて…。たくさんの動物に擬態してなんとか学校生活を1日やり切った少女の心の動きを感じることのできる絵本です。

 

嫌々家を出発する顔のないエディ。その顔はのっぺらぼうです。

学校に着いて、コウモリのようにじっとしていたいと願うエディはリアルなコウモリとして描かれています。

 

その描写が初めは少し恐くも感じますが、慣れてくるとそれほど恐くもありません。

「大人の塗り絵」を想わせる、線の多いボタニカルな絵は、とてもおしゃれな色遣いで、私は好きでした。

 

絵文字の顔のような絵が人物の頭の上に書いてあり、気分を表しているのも、独特で面白い表現方法です。

 

エディは自分を殺し、嫌な時間を動物になってやり過ごします。

エディのクラスメイトも耳や角が生えていて、エディには何か動物に見えているのでしょうか。

 

チーターになり、気に入らないクラスメイトに突進してしまったエディ。 

じーっと身動きせずにいれば校長先生は私に気付かないかも、とカメレオンになるエディ。

 

動物に擬態することで、居心地の悪い空間に存在することができるというのは、現実逃避でしょうか。

解離と呼ばれる心理状態かもしれません。

 

大きな翼が生えて空高く飛べるといいのに。

と一人きりで思うエディがとても可哀想になります。

 

けれど、周りからすると、授業を真面目に受けず、話も聞かず、反抗的で、友達に危害を加えた暴力的な問題児です。

 

その後、やっと家に帰ったエディはまだ動物のまま。

チョウやミミズになり、歯磨きもまともにできません。

 

そして。

寝る前に、洗面台で鏡を見たとき、初めて、のっぺらぼうのエディの目や鼻が見えます。

 

 

でも、うつっているのは エディでした。

あした 学校に いかなければならない エディでした。

 

どんなに動物の真似をして逃避しても、現実は変わらない。

生まれてから死ぬまで、自分という場所から逃れられない私たち。

そう思うとエディと一緒に泣きたくなります。

 

涙を流した エディにママが言います。

悲しいときに涙を流すのは人間だけだ、と。

 

エディはエディ。

それは受け止めなければならない。

受け止めることで涙は流れるかもしれない。

けれど、溜まった涙はざーっとこぼれ、その後はスッキリする。

私たちは動物とは違い、涙で流すことができる。

雨雲が雨を降らした後、ふわふわに戻り、お日様も出てくるように。

 

ひめとちびは、最初は顔のない少女に怪訝な顔をしていましたが、動物たちが気になったようで、エディのぬいぐるみが出てきたページで、「あ!エディがなってたイカとか、ぬいぐるみだったんだ!」と発見して喜んでいました。

 

そうなんです。イカアルマジロナマケモノ、ミミズ…

エディが擬態していた動物は、一般的に愛される動物ではない少し気持ち悪い物もいましたが、それはすべて自分のぬいぐるみだったのです。

それを見て、なんだか切ない気持ちになりました。

 

エディの思考は、他の人には一見理解することができないけれど、その子なりの理由やルーツがあること。

それを善悪や正誤というものさしを使わずに、話を聞いてあげることができたら…

 

現実逃避してもいい。でもチータはだめ、と淡々とエディを送り出すママの愛にじんとします。

他の動物にならなってもいいけど、チータはだめ、という線引きこそが折り合いをつける、ということなのかもしれません。

 

自分が自分であることに辛さを感じるすべての人の心に寄り添う絵本だと思います。

このままじゃ学校にいけません

このままじゃ学校にいけません

 

 

自分を客観視したい「ここは」

こんにちは。

向かい風だったり、暑かったり、疲れていたり、自転車のスピードが全然出ない日があります。

「今日はなかなか進まないなぁ」と言うと、ちびが「おしてあげる!」と後部座席から私の背中を力いっぱい押してくるので、少し元気が出たくるみです。

ちっとも速くはならないんですけどね。

 

さて。

自分がどのように周りから見えるのかを日々気にしてしまう、自意識過剰の私なのですが、周りからどのように見えているのかはいつでもわかりません。

 

そんなものは、誰もがわからないものなのでしょうか。

 

学生の頃、生徒間で作った卒業文集用のアンケートで、「〇〇ちゃんは動物に例えると〇〇」という項目がありました。

アンケートによると、私はハムスター。

カゴの中でカラカラ回ってそう、とのこと。

それを見て、衝撃を受けました。

 

私って、そんなイメージなんだ…と。

 

言われて初めて、背が低いし、ちょろちょろあわあわして空回りしていることが多いよなぁ、と気づきました。

 

その他、人から言われたことを思い出すと…

 

母から、「人前でふにゃふにゃしていて堂々としていない」

大学のとき、「共学出身っぽい」

「キビキビしてそうなのに動作が遅いね」

「保育士さんっぽい」

 

ぱっと思い出せるのはこのくらい…

意外と、あなたってこんな風に見えるよ、と言ってもらえる機会は少なく、他の人から見る自分像は謎に包まれています。

(そもそも人によってイメージも違うでしょうしね)

 

まあ、どれをとっても、私が理想とする「きりっと凛とした女性」からは名実ともにほぼ遠いです…。

 

40歳になった今、私の印象はどんなものなのでしょう。

やっぱり、理想とはかけ離れているような気がします。

 

もしも、自分という人間を冷静に客観視できたら、改善点も簡単に見つけられ、もっと理想像に近づけるのに。

 

周りから見た、自分をイメージすること。

視点を自分から離してみること。

 

たぶん、私は苦手です。

人と接するときにそんな余裕がないのです。

自分を客観的にとらえたいなぁ。

 

自分を客観視するということは、自分のいる、ここを他の視点から見ること。

 

「ここ」はいったいどんな場所なのか?

つまり、相対的に「ここ」をとらえるということです。

 

俯瞰したり、角度をかえたり、五感を使い、「ここ」という場所を見ること。

 

そんな体験ができる絵本があったので紹介します。

 

いろいろな視点を肌で感じて

男の子が椅子に座ったおかあさんの膝にちょこんと座っています。ここは、おかあさんの膝の上です。町の真ん中でもあります。ここは公園の近くであり、椅子の上でもあり、テレビの前、空の下、大地の上でもあります。異なる視点によって、同じ場所である「ここ」が、変わる感覚。そんな遊びを楽しめる絵本です。

 

男の子のいる場所を次々と違う言葉で言い表していきます。

ページをめくるごとに、視点が変わるのが、カメラを切り替えた映像を見ているような感覚です。

寄ったり、引いたり。

「天井の下」と言うときは、天井を見上げたような構図になります。

 

同じ1つの物を見るのでも、たくさんの視点があること。

当たり前のことですが、そのことを肌で感じさせ、実感として浮かび上がらせてくれます。

 

思えば、人の数だけ視点もあり、同じ場面にいても、誰もが違う景色を眺めています。

物理的に視界に入るものも違うし、想像する世界や価値観によっても違います。

そのことに改めて気付き、はっとします。

 

また、絵本では「星の表面」という表現がありますが、それはここが地球という星の上だと知っているからこその表現です。

知識として知らなければ、日常で「ここは星の表面だなあ」などと感じることはないでしょう。

地球の存在を意識することで、「ここ」と地球の関係を感じるわけです。

「地球の表面としてのここ」を感じることは、「ここ」で地球を意識して初めて可能になるということです。

 

だとしたら、人から見た自分を感じるためには、自分の方がその人を意識し、その人の物の見方などを知ることが必要、ということでしょうか…

つまり、自分を客観視するためには、その人の視点になりきれるようにその人を理解することが大切?

うーん、なかなかハードルが高いです。

 

それから、「雨の音のはしっこ」という表現も心に残りました。

音を、場所の表現に使っているあたり、さすが詩人です。

音波は物理の法則に従い、場所によって届いたり、遮られたり、反射するので、それは比喩でもないのかもしれません。

音源と遠く、わずかに聞こえるほどの場所を「音のはしっこ」と考えるのは面白い感覚です。そうだとしたら「匂いのはしっこ」もありますね、きっと。

 

などといろいろと考えたのは、私だけ。

 

我が家ではあまり子ども受けは良くなくて、ひめは、「天井の下」と聞いて「当たり前だよね、お家の中なんだから」と言っていました。

変わる視点よりも、変わらない男の子とお母さんに退屈そうで、風船を飛ばしてしまった少女を探す絵探しに必死になっていました。

それもまた興味深かったです。

少し大きい子の方が面白く感じる絵本かもしれません。

 

 

そして、ラスト。

ここを「ここ」と考えるぼくがいること。

 

たくさんの視点に囲まれているからこそ、「ここ」からさまざまなものが見える。

しばらく視点について考えてしまいそうです。

ここは

ここは

  • 作者:最果タヒ
  • 発売日: 2020/06/25
  • メディア: 単行本
 

 

すべては知ることから始まる「ゾウの森とポテトチップス」

こんにちは。

12歳のにーさんが「俺はコミュ障だから」と冗談混じりに言った時に、不思議と嬉しくなってしまったくるみです。

客観的に評価できる時点で、かなり成長したということなのではないか、と嬉しくなったのでした。

 

話は変わり…

ポテトチップスはお好きですか?

 

甘い物や油の多い食べ物が苦手な私ですが、なぜだかポテトチップスは大好きです。

ビールのお供の中で1番と思っています。

 

そんな私は、出来立てを食べたくて家で何度もポテトチップス作りに挑戦しているのですが、油でヘナヘナになってしまったりして、市販の物のようにパリパリに揚げるのは難しいです。

 

以前、たまたま作り方を研究しているテレビ番組を見たのですが。

それによると、じゃがいもの種類を選ぶこと、水気をよく拭き取ること、油の温度を下げないように少量ずつ高温で揚げること、がコツとのことでした。

 

美味しいポテトチップスを作るのには大量の油がいるようです。

 

とういことは、1つのスーパーの棚に並んでいるポテトチップスを作るだけでもどのくらいの油が消費されているのでしょう…

野菜を素揚げした油だとしても、それなりの頻度で取り替えなければならないだろうし。

 

そして、その油は一体どこから手にいれているのか…

 

今日はそんなお話です。

 

これからはもっと大切に食べよう

東京から4000キロ離れた世界で3番目に大きな島・ボルネオ島。その島の熱帯雨林には様々な生き物が暮らしています。その熱帯雨林のゾウに会いに行って気付いたこと、知ったこと。すべては「知る」ことから始まるのです。

 

 

舞台はマレーシアのボルネオ島

鮮やかな角を持った奇妙な鳥。鼻の長いテングザル。

子どもの興味を引くビジュアルを持った動物たち。

鮮やかな写真で見ることができます。

 

文章量はわりとしっかりあって、一見説明文のような感じです。

けれど、著者の「ゾウに会いたい」という素直な気持ちが綴られ、写真に沿った内容なので、写真を眺めながら4歳にも抵抗なく読めました。

体が大きい野生のゾウを見たい、という純粋な気持ちが子供心に寄り添います。

(読み聞かせでは「キナバタンガン川」に苦労しました。言いにくい!)

 

写真に写っているゾウは、動物園やイラストで見知ったゾウよりも少し薄汚い感じ。

まさに、野生のゾウ、という感じですね。

けれど、水浴びや泥で遊んでご機嫌そうな表情豊かなゾウの写真を見て、一気にゾウの好感度はアップ。

筆者も

体が大きく力のつよいゾウが、これほど表情が豊かで、とても愛らしい動物であることをはじめて知りました。

と書いています。

写真がとても上手いせいだと思うのですが、ほんとうにゾウの表情が豊かなのです。

 

そして、ゾウに愛着を持たせておいて、物語は核心に迫っていきます。

 

ゾウが命懸けで川を渡らなければならなくなったのはなぜか?

色鮮やかな個性ある動物たちの住む森が減っているのはなぜなのか?

 

それは、私たちの日常を支えるパーム油をつくるため。

大好きなポテトチップスのため(その他たくさんの日常を支える商品のため)なのです。

 

私たちの便利で豊かな日常のために、ボルネオ島の表情豊かな愛らしいゾウたちが命懸けで暮らさなければならなくなっている、という事実。

 

この絵本は、その事実を伝えてくれる写真絵本です。

 

ただ、この絵本の素晴らしいところは、深刻な社会問題を考える絵本なのに、取材時の体験を鮮明な写真によってリアルに伝えながらも、易しく恰好付けない言葉でわかりやすく語っていて、子どもにも非常に共感しやすいところだと思います。

説明色の強い内容なのに、子どもが付いていけるように工夫されている絵本だと思いました。

パームやしから油を作る工程も、ひめは興味津々で、楽しく読めました。

 

たくさんの生物、昆虫や鳥、植物、サルやゾウの写真も必見です。

 

最後のページにたくさん並ぶ生物。

そして、ぱたんと本を閉じると裏表紙に現れるポテトチップ。

 

多様な生物。

を、視界から排除して浮かび上がるポテトチップ。

 

このポテトチップスを食べるために、犠牲になっている多様な生物たちという構図。

ページをめくるだけで感じられる現実。

 

ポテトチップス。

そんなに価値があるものとして食べたことがあっただろうか。

 

すべては「知る」ことから始まる。

私が知ったことで、パーム油の消費量が変わるわけでもないけれど。 

知ったところで、絶対食べないと宣言もできないのだけれど。

 

1つ知った。

ポテトチップスをむやみに食べない。

心して大切に食べる。ありがたく、食べる。

 

この豊かな生活を支えてくれているもの。

きっと他にもたくさんあるんだろうな…

ゾウの森とポテトチップス (そうえん社写真のえほん)

ゾウの森とポテトチップス (そうえん社写真のえほん)

  • 発売日: 2012/12/01
  • メディア: ハードカバー
 

 

年をとっても何でもできる「エマおばあちゃん」

こんにちは。

もうすぐ敬老の日ですね。

老を敬うと書いて敬老。

敬うに値する年をとり方をしたいと思うくるみです。

 

私の両親も年をとり、今では紛れもなくお年寄りと呼ばれる年になりました。

親孝行には、子どもである私や、孫の笑顔を見せるのが1番、と思いつつ、今年はコロナの脅威に負けて、なかなか会うことができずにいます。

 

とはいえ、頻繁に会えばいいというものではないらしく、「孫は2度喜ばす」とも言われているようです。

1回目︰会えて嬉しい!

2回目︰帰ってくれて嬉しい!

と…

いくら孫が可愛くても、ずっと一緒にいるのは疲れますよね。

 

わかります、私だって毎日疲れるのだもの…。

四半世紀先に産まれた体で孫のパワーを受け止めて、疲れないはずがないですよね。

 

幼稚園のママの中で年配になってきた私は、毎日自転車の送迎でヒイヒイ言っています。

この暑さの中、片道10分を毎日2往復している私、それだけで十分頑張ってる!と甘い自己評価に酔いしれていたのですが…

 

先日、孫2人を自転車に乗せて送迎する(1人は未就園児)おばあちゃんに遭遇しました。

しかも、クラスが違う、全く知らない私にも「おはようございます!」と元気よく挨拶してくれます。

 

なんて、すごいんだ!

元気よし、機嫌よし!

私よりふた回りは年上なはずなのに、この暑い中、2人連れてきての、爽やかな挨拶。

おそらくこの後、家に帰れば未就園児の孫の相手と家事が待っているのに。

頭が下がる思いです。

 

さて、私の母はというと、いつも行っていたジムもフルートのレッスンも、コロナ渦で参加できなくなってしまい、なんだか元気がなさそうです。

年齢を思うと、行っても大丈夫だよと安易には言えないし。

家で完結できることを楽しめればいいのだけれど。

何をするにもあまり楽しくないと後ろ向きです。

 

40の私も身体の衰えを感じ始めているのだから、さらに年齢を重ねると、きっと身体も重くなるし、頭の回転も遅くなるし、趣味や楽しいことをしていても今までのようにいかない苛立ちとかもあるのでしょう。

 

でも、始めるのに遅すぎることなんてない、とも言うわけだし。

母が何か楽しめることがあるといいなと思う最近です。

 

そんな今日は、新しいことを始めた72歳のおばあちゃんのお話です。

 

年をとっても、やりたいことをやる

 「あたしの覚えている通りのふるさとの絵を描こう」72歳になったエマおばあちゃんは決心しました。1人で暮らすおばあちゃんが見つけたささやかな楽しみ。明るい色彩、のびのびした構図、エマおばあちゃんの温かさが伝わってくる絵本です。

 

エマおばあちゃんは、しましまねこと暮らしています。

4人の子ども、7人の孫、14人のひ孫がいて、時々会いにきてくれるけれど、普段はひとりぼっち。さびしいなと思うこともありました。

それでも、ささやかに、のんびりとした暮らしを楽しんでいます。

 

そんなおばあちゃんが、72歳のお誕生日のお祝いにふるさとの絵をもらいます。

けれども、その絵は自分の覚えているふるさととは違う、と感じるおばあちゃん。

その気持ちは日に日に強くなり、とうとう、自分自身でふるさとの絵を描こうと決心します。

 

そこからは、描いて描いて描きまくるエマおばあちゃんの新しい毎日が始まります。

 

絵を描くのが好きなひめは、おばあちゃんがとてもたくさん描いているところが気に入ったようでした。

「すごい、たくさんしまってるんだね!」「壁にもいっぱい!」と興奮していました。

 

私はエマおばあちゃんの絵が、明るくて、おしゃれで、人物画や自然や物などバラエティに富んでいて、とてもすてきだなぁと思いました。

もちろん、作者のクーニーさんの絵なのだけれど、本当にエマおばあちゃんが描いた気がするから不思議です。

 

私はまだ若い頃、72歳と聞けば、もう老人で、70も80もそれほど変わらないように思っていました。

エマおばあちゃんの孫たちも言います。

「かわいそうに。もうお年だものね。」

 

だんだんと、自分の親がその世代になり、自分も少しずつ近づいてきて、72という年齢もまだまだ何でもできるような気がしています。

 

考えること、感じること、表現すること、今の時代は、さらにそれを世界に発信することだって可能です。

 

体を動かすことだってできなくはありません。

私の知り合いの女性は70を過ぎて水泳を習い、泳げるようになりました。

 

どんな状態だろうとも何かできることはある。

そう思えるかどうかで未来は変わる。

過去のことを考えるのではなく、未来を、今を、楽しむことを考える。

 

あの時これをやっておけば…といくら過去を振り返っても過去は変えられません。

変えられる時間の中で、1番早いのは今なのだから。

 

今、やりたいことをやる。

 

この絵本を母にプレゼントしたいと思いつつ、逆効果になる気もして迷っています。

(うつの人に頑張れと言うのと同じような気もして…)

 

ともあれ、飼いねこの名前がユニークだったり、戸棚やインテリアなどから外国の優雅な暮らしが見え、とても魅力的な絵本です。

エマおばあちゃん

エマおばあちゃん