自分を客観視したい「ここは」
こんにちは。
向かい風だったり、暑かったり、疲れていたり、自転車のスピードが全然出ない日があります。
「今日はなかなか進まないなぁ」と言うと、ちびが「おしてあげる!」と後部座席から私の背中を力いっぱい押してくるので、少し元気が出たくるみです。
ちっとも速くはならないんですけどね。
さて。
自分がどのように周りから見えるのかを日々気にしてしまう、自意識過剰の私なのですが、周りからどのように見えているのかはいつでもわかりません。
そんなものは、誰もがわからないものなのでしょうか。
学生の頃、生徒間で作った卒業文集用のアンケートで、「〇〇ちゃんは動物に例えると〇〇」という項目がありました。
アンケートによると、私はハムスター。
カゴの中でカラカラ回ってそう、とのこと。
それを見て、衝撃を受けました。
私って、そんなイメージなんだ…と。
言われて初めて、背が低いし、ちょろちょろあわあわして空回りしていることが多いよなぁ、と気づきました。
その他、人から言われたことを思い出すと…
母から、「人前でふにゃふにゃしていて堂々としていない」
大学のとき、「共学出身っぽい」
「キビキビしてそうなのに動作が遅いね」
「保育士さんっぽい」
ぱっと思い出せるのはこのくらい…
意外と、あなたってこんな風に見えるよ、と言ってもらえる機会は少なく、他の人から見る自分像は謎に包まれています。
(そもそも人によってイメージも違うでしょうしね)
まあ、どれをとっても、私が理想とする「きりっと凛とした女性」からは名実ともにほぼ遠いです…。
40歳になった今、私の印象はどんなものなのでしょう。
やっぱり、理想とはかけ離れているような気がします。
もしも、自分という人間を冷静に客観視できたら、改善点も簡単に見つけられ、もっと理想像に近づけるのに。
周りから見た、自分をイメージすること。
視点を自分から離してみること。
たぶん、私は苦手です。
人と接するときにそんな余裕がないのです。
自分を客観的にとらえたいなぁ。
自分を客観視するということは、自分のいる、ここを他の視点から見ること。
「ここ」はいったいどんな場所なのか?
つまり、相対的に「ここ」をとらえるということです。
俯瞰したり、角度をかえたり、五感を使い、「ここ」という場所を見ること。
そんな体験ができる絵本があったので紹介します。
いろいろな視点を肌で感じて
男の子が椅子に座ったおかあさんの膝にちょこんと座っています。ここは、おかあさんの膝の上です。町の真ん中でもあります。ここは公園の近くであり、椅子の上でもあり、テレビの前、空の下、大地の上でもあります。異なる視点によって、同じ場所である「ここ」が、変わる感覚。そんな遊びを楽しめる絵本です。
男の子のいる場所を次々と違う言葉で言い表していきます。
ページをめくるごとに、視点が変わるのが、カメラを切り替えた映像を見ているような感覚です。
寄ったり、引いたり。
「天井の下」と言うときは、天井を見上げたような構図になります。
同じ1つの物を見るのでも、たくさんの視点があること。
当たり前のことですが、そのことを肌で感じさせ、実感として浮かび上がらせてくれます。
思えば、人の数だけ視点もあり、同じ場面にいても、誰もが違う景色を眺めています。
物理的に視界に入るものも違うし、想像する世界や価値観によっても違います。
そのことに改めて気付き、はっとします。
また、絵本では「星の表面」という表現がありますが、それはここが地球という星の上だと知っているからこその表現です。
知識として知らなければ、日常で「ここは星の表面だなあ」などと感じることはないでしょう。
地球の存在を意識することで、「ここ」と地球の関係を感じるわけです。
「地球の表面としてのここ」を感じることは、「ここ」で地球を意識して初めて可能になるということです。
だとしたら、人から見た自分を感じるためには、自分の方がその人を意識し、その人の物の見方などを知ることが必要、ということでしょうか…
つまり、自分を客観視するためには、その人の視点になりきれるようにその人を理解することが大切?
うーん、なかなかハードルが高いです。
それから、「雨の音のはしっこ」という表現も心に残りました。
音を、場所の表現に使っているあたり、さすが詩人です。
音波は物理の法則に従い、場所によって届いたり、遮られたり、反射するので、それは比喩でもないのかもしれません。
音源と遠く、わずかに聞こえるほどの場所を「音のはしっこ」と考えるのは面白い感覚です。そうだとしたら「匂いのはしっこ」もありますね、きっと。
などといろいろと考えたのは、私だけ。
我が家ではあまり子ども受けは良くなくて、ひめは、「天井の下」と聞いて「当たり前だよね、お家の中なんだから」と言っていました。
変わる視点よりも、変わらない男の子とお母さんに退屈そうで、風船を飛ばしてしまった少女を探す絵探しに必死になっていました。
それもまた興味深かったです。
少し大きい子の方が面白く感じる絵本かもしれません。
そして、ラスト。
ここを「ここ」と考えるぼくがいること。
たくさんの視点に囲まれているからこそ、「ここ」からさまざまなものが見える。
しばらく視点について考えてしまいそうです。
すべては知ることから始まる「ゾウの森とポテトチップス」
こんにちは。
12歳のにーさんが「俺はコミュ障だから」と冗談混じりに言った時に、不思議と嬉しくなってしまったくるみです。
客観的に評価できる時点で、かなり成長したということなのではないか、と嬉しくなったのでした。
話は変わり…
ポテトチップスはお好きですか?
甘い物や油の多い食べ物が苦手な私ですが、なぜだかポテトチップスは大好きです。
ビールのお供の中で1番と思っています。
そんな私は、出来立てを食べたくて家で何度もポテトチップス作りに挑戦しているのですが、油でヘナヘナになってしまったりして、市販の物のようにパリパリに揚げるのは難しいです。
以前、たまたま作り方を研究しているテレビ番組を見たのですが。
それによると、じゃがいもの種類を選ぶこと、水気をよく拭き取ること、油の温度を下げないように少量ずつ高温で揚げること、がコツとのことでした。
美味しいポテトチップスを作るのには大量の油がいるようです。
とういことは、1つのスーパーの棚に並んでいるポテトチップスを作るだけでもどのくらいの油が消費されているのでしょう…
野菜を素揚げした油だとしても、それなりの頻度で取り替えなければならないだろうし。
そして、その油は一体どこから手にいれているのか…
今日はそんなお話です。
これからはもっと大切に食べよう
東京から4000キロ離れた世界で3番目に大きな島・ボルネオ島。その島の熱帯雨林には様々な生き物が暮らしています。その熱帯雨林のゾウに会いに行って気付いたこと、知ったこと。すべては「知る」ことから始まるのです。
舞台はマレーシアのボルネオ島。
鮮やかな角を持った奇妙な鳥。鼻の長いテングザル。
子どもの興味を引くビジュアルを持った動物たち。
鮮やかな写真で見ることができます。
文章量はわりとしっかりあって、一見説明文のような感じです。
けれど、著者の「ゾウに会いたい」という素直な気持ちが綴られ、写真に沿った内容なので、写真を眺めながら4歳にも抵抗なく読めました。
体が大きい野生のゾウを見たい、という純粋な気持ちが子供心に寄り添います。
(読み聞かせでは「キナバタンガン川」に苦労しました。言いにくい!)
写真に写っているゾウは、動物園やイラストで見知ったゾウよりも少し薄汚い感じ。
まさに、野生のゾウ、という感じですね。
けれど、水浴びや泥で遊んでご機嫌そうな表情豊かなゾウの写真を見て、一気にゾウの好感度はアップ。
筆者も
体が大きく力のつよいゾウが、これほど表情が豊かで、とても愛らしい動物であることをはじめて知りました。
と書いています。
写真がとても上手いせいだと思うのですが、ほんとうにゾウの表情が豊かなのです。
そして、ゾウに愛着を持たせておいて、物語は核心に迫っていきます。
ゾウが命懸けで川を渡らなければならなくなったのはなぜか?
色鮮やかな個性ある動物たちの住む森が減っているのはなぜなのか?
それは、私たちの日常を支えるパーム油をつくるため。
大好きなポテトチップスのため(その他たくさんの日常を支える商品のため)なのです。
私たちの便利で豊かな日常のために、ボルネオ島の表情豊かな愛らしいゾウたちが命懸けで暮らさなければならなくなっている、という事実。
この絵本は、その事実を伝えてくれる写真絵本です。
ただ、この絵本の素晴らしいところは、深刻な社会問題を考える絵本なのに、取材時の体験を鮮明な写真によってリアルに伝えながらも、易しく恰好付けない言葉でわかりやすく語っていて、子どもにも非常に共感しやすいところだと思います。
説明色の強い内容なのに、子どもが付いていけるように工夫されている絵本だと思いました。
パームやしから油を作る工程も、ひめは興味津々で、楽しく読めました。
たくさんの生物、昆虫や鳥、植物、サルやゾウの写真も必見です。
最後のページにたくさん並ぶ生物。
そして、ぱたんと本を閉じると裏表紙に現れるポテトチップ。
多様な生物。
を、視界から排除して浮かび上がるポテトチップ。
このポテトチップスを食べるために、犠牲になっている多様な生物たちという構図。
ページをめくるだけで感じられる現実。
ポテトチップス。
そんなに価値があるものとして食べたことがあっただろうか。
すべては「知る」ことから始まる。
私が知ったことで、パーム油の消費量が変わるわけでもないけれど。
知ったところで、絶対食べないと宣言もできないのだけれど。
1つ知った。
ポテトチップスをむやみに食べない。
心して大切に食べる。ありがたく、食べる。
この豊かな生活を支えてくれているもの。
きっと他にもたくさんあるんだろうな…
年をとっても何でもできる「エマおばあちゃん」
こんにちは。
もうすぐ敬老の日ですね。
老を敬うと書いて敬老。
敬うに値する年をとり方をしたいと思うくるみです。
私の両親も年をとり、今では紛れもなくお年寄りと呼ばれる年になりました。
親孝行には、子どもである私や、孫の笑顔を見せるのが1番、と思いつつ、今年はコロナの脅威に負けて、なかなか会うことができずにいます。
とはいえ、頻繁に会えばいいというものではないらしく、「孫は2度喜ばす」とも言われているようです。
1回目︰会えて嬉しい!
2回目︰帰ってくれて嬉しい!
と…
いくら孫が可愛くても、ずっと一緒にいるのは疲れますよね。
わかります、私だって毎日疲れるのだもの…。
四半世紀先に産まれた体で孫のパワーを受け止めて、疲れないはずがないですよね。
幼稚園のママの中で年配になってきた私は、毎日自転車の送迎でヒイヒイ言っています。
この暑さの中、片道10分を毎日2往復している私、それだけで十分頑張ってる!と甘い自己評価に酔いしれていたのですが…
先日、孫2人を自転車に乗せて送迎する(1人は未就園児)おばあちゃんに遭遇しました。
しかも、クラスが違う、全く知らない私にも「おはようございます!」と元気よく挨拶してくれます。
なんて、すごいんだ!
元気よし、機嫌よし!
私よりふた回りは年上なはずなのに、この暑い中、2人連れてきての、爽やかな挨拶。
おそらくこの後、家に帰れば未就園児の孫の相手と家事が待っているのに。
頭が下がる思いです。
さて、私の母はというと、いつも行っていたジムもフルートのレッスンも、コロナ渦で参加できなくなってしまい、なんだか元気がなさそうです。
年齢を思うと、行っても大丈夫だよと安易には言えないし。
家で完結できることを楽しめればいいのだけれど。
何をするにもあまり楽しくないと後ろ向きです。
40の私も身体の衰えを感じ始めているのだから、さらに年齢を重ねると、きっと身体も重くなるし、頭の回転も遅くなるし、趣味や楽しいことをしていても今までのようにいかない苛立ちとかもあるのでしょう。
でも、始めるのに遅すぎることなんてない、とも言うわけだし。
母が何か楽しめることがあるといいなと思う最近です。
そんな今日は、新しいことを始めた72歳のおばあちゃんのお話です。
年をとっても、やりたいことをやる
「あたしの覚えている通りのふるさとの絵を描こう」72歳になったエマおばあちゃんは決心しました。1人で暮らすおばあちゃんが見つけたささやかな楽しみ。明るい色彩、のびのびした構図、エマおばあちゃんの温かさが伝わってくる絵本です。
エマおばあちゃんは、しましまねこと暮らしています。
4人の子ども、7人の孫、14人のひ孫がいて、時々会いにきてくれるけれど、普段はひとりぼっち。さびしいなと思うこともありました。
それでも、ささやかに、のんびりとした暮らしを楽しんでいます。
そんなおばあちゃんが、72歳のお誕生日のお祝いにふるさとの絵をもらいます。
けれども、その絵は自分の覚えているふるさととは違う、と感じるおばあちゃん。
その気持ちは日に日に強くなり、とうとう、自分自身でふるさとの絵を描こうと決心します。
そこからは、描いて描いて描きまくるエマおばあちゃんの新しい毎日が始まります。
絵を描くのが好きなひめは、おばあちゃんがとてもたくさん描いているところが気に入ったようでした。
「すごい、たくさんしまってるんだね!」「壁にもいっぱい!」と興奮していました。
私はエマおばあちゃんの絵が、明るくて、おしゃれで、人物画や自然や物などバラエティに富んでいて、とてもすてきだなぁと思いました。
もちろん、作者のクーニーさんの絵なのだけれど、本当にエマおばあちゃんが描いた気がするから不思議です。
私はまだ若い頃、72歳と聞けば、もう老人で、70も80もそれほど変わらないように思っていました。
エマおばあちゃんの孫たちも言います。
「かわいそうに。もうお年だものね。」
だんだんと、自分の親がその世代になり、自分も少しずつ近づいてきて、72という年齢もまだまだ何でもできるような気がしています。
考えること、感じること、表現すること、今の時代は、さらにそれを世界に発信することだって可能です。
体を動かすことだってできなくはありません。
私の知り合いの女性は70を過ぎて水泳を習い、泳げるようになりました。
どんな状態だろうとも何かできることはある。
そう思えるかどうかで未来は変わる。
過去のことを考えるのではなく、未来を、今を、楽しむことを考える。
あの時これをやっておけば…といくら過去を振り返っても過去は変えられません。
変えられる時間の中で、1番早いのは今なのだから。
今、やりたいことをやる。
この絵本を母にプレゼントしたいと思いつつ、逆効果になる気もして迷っています。
(うつの人に頑張れと言うのと同じような気もして…)
ともあれ、飼いねこの名前がユニークだったり、戸棚やインテリアなどから外国の優雅な暮らしが見え、とても魅力的な絵本です。
魔法はかけられたまま「まほうの夏」
こんにちは。
今年はスイカを食べなかった!と気付き、心残りのくるみです。
スイカと言えば、「まるごと食べたい!」と思ったことはありませんか?
子どもの頃、私はそう思っていました。
そして、私のその願いは、九州の伯母の家で叶えられました。
みかん農家をしていた伯母は、みかん以外にも野菜や果物を自家用に育てていて、すいかもその中の1つでした。
家の前でごろんごろんと転がっているそのスイカを見て「1こをそのまま食べてみたい!」と言う私に,「食べてもいいよ。でもそんな食べ切れんやろ」と半分にしてくれました。
膝で立って大きなスプーンでザクザクと食べたスイカは、やっぱり半分も食べ切れなかったけれど、自分の顔以上の大きさのものを食べている楽しさは、いまだに覚えています。
最後はおなかがタプタプでした。
そんな風に小学校の夏休みは、毎年のように九州の伯母の家で過ごしました。
家の前は田んぼと畑。後ろは山。
隣の家は見えないほど遠い。
家の中で走り回っても、どんなに大きな声を出しても、汚れた服で家に上がっても、誰にも何も言われない。
海水浴へ行き、トラックの荷台に乗ってみかんの水やりに付いていき、ビニールハウスの周りでバッタを捕まえて、浴衣を着替えて公民館の夏祭りで盆踊りを踊る。
家に帰ると近所のおばあさんが勝手に入って座って待っていたり、近所の女の子が「ま~た来たで~!」と遊びに来たり、みんな方言を話し、声も大きくて。
薪でお風呂を炊いたり、お風呂上がりによく冷えたみかんジュースを飲んだり。
お刺身も野菜も新鮮。
伯母の作るナスの味噌汁は苦手だったけれど、白ウリの浅漬けや手作りこんにゃくが美味しかった。
そんな特別な毎日を過ごしました。
自分が子育てをして初めて、子どもを預かるということがどれだけ大変かを知り、伯母のありがたみが心に沁みます。
あの思い出はかけがえのないものです。
普段市街地に住んでいる子どもにとって、いなか町だからこそ、親の目が届かないからこそ、非日常の、きらきら輝いていた日々。
それは、魔法のような日々です。
わが子たちにはそんな田舎がなくて残念ですが、少しこの絵本でおすそ分けしてもらいました。
かかってしまう魔法
夏休み。弟と2人でお母さんのいなかへ行った。海辺の町だけど、森もあった。川もあった。友だちもできたよ。僕たちを真っ黒にした―まほうの夏だった。
高い建物に囲まれた町で、ボーダーTシャツのお兄ちゃんと麦わら帽子が大きすぎる小さい弟。
学校のプールとゲームと麦茶。それとポテトチップス。
夏休みのよくある風景。
退屈している兄弟におじさんからハガキが届きます。
歓喜する兄弟の嬉しそうなこと。
イヤッホー!
と、飛行機に乗ってお母さんのいなかに遊びに行きます。
虫取り、海水浴、早起き、スイカの種飛ばし、小商店でのお買い物、魚釣り…
白い肌の兄弟は、地元の子供たちやおじさん達と遊び、真っ黒坊主に大変身。
題名通り、魔法がかけられたような、最高の夏休みが描かれています。
ずっとここにいたいと思い始めたお兄ちゃんでしたが…
こういうことってあるよね、という最後もクスっと笑えます。
どうぶつの森好きのひめは魚釣りの場面で「すごい!やってみたい!」と反応していました。
食いしん坊のちびはアイスキャンディーの場面で「いいなぁ!」
アイスキャンディーという言葉の響きが、いなかの昔の夏を思い出します。
私も祖母からもらった小銭を握りしめて、従姉妹と本屋さんにアイスを買いに行くのが嬉しかったなぁ。(本屋さんになぜかアイス!)
食べてる途中から溶け始める、棒アイス。
懐かしいなぁ。
私は過ぎし日の記憶を重ねながら、子ども達ははじめて経験する冒険のように、楽しんで読めました。
考えてみると、町育ちの私が「となりのトトロ」やいなかの風景を見て、尊く感じるのは九州での夏があったからなのだと思います。
町は町で便利で近代的で、洗練されていて、人の手、人の情熱によって造り込まれた大人の楽しみがたくさんある。
とても暮らしやすく、大好きだけれど…
農村回帰主義などではないのだけれど、心のどこかでいなかを崇拝する気持ちがあります。
今では虫も、汚れることも、力作業なども苦手になったくせに。
勝手だとは知ってるのだけど、ふとしたときに、心がいなかの景色に触れたがっている気がします。
九州で子ども時代を過ごし、東京に出てきた父も「本当は老後は田舎で暮らしたい」と飲みながら言ったことがありました。
いなかの魔法でしょうか。
帰りたくなる場所になる魔法。
夏の終わり。
今は亡き伯母を思い出し、今年もキラキラした夏にさよならをします。
花火大会の舞台裏にも目を向けて「ねこのはなびや」
こんにちは。
こんなにまだ暑いのに、なんとなく秋の気配を感じる早朝。
セミの声の変化?陽の角度?風の温度?緑色の深さ??増えてきた落ち葉?
何が秋を感じさせるのだろう、と思ったくるみです。
もう8月も終わり。
みなさんはこの夏、花火を見ましたか?
うちの子どもたちは近所の子と手持ち花火をしました。
花火をすると夏休み、という感じがします。
短い夏休みの数少ない思い出になりました。
今年は各地で花火大会も中止になってしまったらしく、残念ですね。
先日、動画で花火を見られる機会があったのですが、スマホで見るのも思いの外良かったです。
実際に見る臨場感はもちろん何物にも代えがたいとは思いますが、音質や画質の良さにより、思っていた以上に楽しめました。
子ども達も大喜び。
ドン、ヒュー、パラパラ、という音がリアルで、胸に響きました。
これで、火薬の匂いと川風、飛んでくる燃えカスがあれば…
VRなどで家にいながらにして、花火を楽しむのが普通になる日が来るかもしれないですね。
でも、これはきっと、花火自体はバーチャルではないからこそなのでしょう。
(なぜだかそうであって欲しいと願う私がいます。)
1つ1つ火薬を詰めて、丁寧に運搬し、着火する、花火師さんの技。
花火の1つ1つがそんな風にして、打ち上げられているのだ、ということがわかる、楽しい絵本があったので紹介します。
どの組が勝つかな?
ねこの花火屋は夜空に花火をドドーンと打ち上げる。小玉中玉大玉が景気よく上がる上がる。さあさあ仕掛け花火もご覧あれー。しろねこ組、くろねこ組、とらねこ組と3つの花火屋が競う花火大会。大きな花火大会の準備の様子や、仕掛けをうまく使ったダイナミックな花火が楽しめる絵本です。
表紙の銀のキラキラした部分に「光ってる!」と食いつくひめ。
花火を模したキラキラに既にやられています。
花火に火薬を詰めて、筒に入れて、船に積む。
花火大会の準備をする3つの組のねこたちの忙しそうな様子。
ちびは、どのねこが何組なのかをみるのが楽しいようで、「こっちからこっちがしろねこなんだね~」とねこを見て楽しんでいました。
3つの組ののねこたちは、見た目にもわかりやすい。しろ、くろ、とら。
この花火大会には競争要素もあるようで、お客さんの歓声と拍手で優勝を決めるとのこと。
「どの組が勝つのかなぁ」とひめはワクワクしていました。
まずはしろねこ組から。
色とりどりの、いろいろな形の花火が空に描かれます。
空の色はまだ少し明るく、花火大会が始まる夕ベの、少し明るい空の色を思わせます。
だんだん夜空も暗くなって…
次のくろねこ組で絵本は大きく仕掛けます。
ダイナミックな花火に子どもたちも大喜びです。
最後のとらねこ組は、またまた趣きの違う花火。
バラエティーに富んだ花火は観ていて飽きません。
3組が協力して行う仕掛け花火も圧巻です。
我が家ではねこも気になるようで…
「船に乗らないねこもいるんだね」
「船に乗らなかったねこははしごの準備してたんだね」
「待って!はしご準備したのいつからかページ戻って見せて」
と花火屋のねこの様子も追いかけていました。
そうそう、きれいな花火は花火屋さんの苦労の賜物ですもんね。
舞台裏に想いを寄せられますね。
さて、どの組が優勝したでしょう?
うちではとらねこ組が人気でした。
みなさんもどの組が勝つのか、ぜひ読んでみて下さい。
絵が上手い人の見ている世界「空の絵本」
こんにちは。
完全に上半身を起こして寝返りするちび。
夜中に猛然と起き上がる姿にビクッとするくるみです。
何度かブログでも話しているのですが、絵が上手い人に憧れています。
手帳にイラストや日記を描く人、
ブログにまんがを描く人、
「大人の塗り絵」をすごいクオリティで塗る人、
最近では、You Tubeで「本物に見える〇〇」を描く動画などがアップされていて、もう何が起きているのかわからないレベルです。
以前、絵の上手い友達が家に遊びに来たときに、「おえかきせんせい」(磁力で砂鉄みたいなものを引きつけてお絵かきできるオモチャ)を使って、すごく上手に絵を描いてくれました。
こんな道具でこんな絵を!という衝撃を忘れられません。
そんなわけで、絵が上手いというのはどういうことなのだろう、と考えることがよくあります。
私も、そこにあるものを見て描く、というのはある程度できるのです。
けれど、何も見ないで描くことができません。
例えば、自転車を描くとして。
どことどこがつながっていて、フレームはどのように曲がっているのか。
ということが、実物を見ないと全然わからないのです。
毎日自転車に乗っていても。
絵の上手い人は、写真を見るように対象物を鮮明に頭の中に思い浮かべられるのでしょうか。
それから、もうひとつ大きな要素である、色。
そこにあるものを鉛筆でなんとなくのデッサンくらいは描けても、色を塗るのはまるでダメです。
できるのは、1色の濃淡で、光と影を付けるくらい。
絵の上手い人が水面を描くときに、赤を使ったりしますよね?
水色に見える水なのに、赤!?
そして、絵が完成すると、それはとても自然でしかも効果的。
あれは、実際に水面を見るときに、既に赤が見えているのですか??
そのように考えると、絵の上手い人はきっと世界を見る目が既に違うのだ、と思うのです。
私には見えていない色彩や曲線を感じ取り、さらに一瞬の映像を切り取って保存できる。
そんな脳の機能が備わっているのだと思います。
生まれつきか、訓練によって。
そしてそうだとすると、自分は生まれてからずっと、一瞬一瞬の世界の美しさを見過ごして生きてきたのではないか、と、とても残念な気持ちになります。
私が認識している世界より、実際の世界はもっと多彩な色、美しい線形に満ちているのかもしれない。
この絵本では豊かな感受性で見た世界が体験できるような気がします。
世界はなんて美しいのだろう
雨、風、光。だんだんだんだん変わる空と空の下の緑の姿を、心地よい言葉と力のある絵で丁寧に写し取っています。ページをめくるだけで、風の音や光の輝きを感じることができる美しい絵本です。
私、荒井良二さんの絵が大好きなのです。
荒井良二さんといえば,「たいようオルガン」「ぼくのキュートナ」などの愛らしいキャラクターが浮かびます。
描く景色は子供のクレヨン画のように自由で、優しい色使い。
「あさになったのでまどをあけますよ」などの景色も、実際よりも明るく優しい配色でなので、写実的だと思ってはいませんでした。
けれど、こんなに普通に景色を描いても上手いのですね!(当たり前ですよね、失礼な言い方になってしまってごめんなさい。)
表紙の空の雲も疾走感があり、素敵です。
草木は雨によって暗くなり、風に煽られて、雨上がりには夕日を浴びて輝きます。
時間の流れとともにダイナミックに移り変わる光景に目を奪われます。
そんな中でも、雫や花の、写実では終わっていない、 荒井さんらしい愛らしい部分も、やっぱり素敵で、うっとり。
そして、言葉。
だん
だだん
だんだん
雨はつよくなり
と、「だ」と「ん」を多用したリズムと、
みどりいろは みどりいろに
空いろは 空いろに
と、たくさん色の描写。
その言葉にぴったりあった絵に、太陽や月や星からの光が地球の自然との作る色の美しさに、もう胸がいっぱいになります。
雨は影と水をもたらして、雨上がりに輝く金色や茜色。
子ども達は雨上がりの星空に夢中。
キノコや花、カエルにうさぎ、電話にポット。
小さく星のように描かれた光の形。
遊び心もいっぱいです。
「馬だ!」「これはなんだろう?」と全部を見ようとするひめに、本を奪われました。
雨降りの一日を眺め、最後は水に映るお月様を見て、ゆっくりページを閉じる。
至福のひとときです。
やはり。
この情景を実際に見てもこんな美しさを感じ取れないかもしれないなぁ、と思うのです。
絵にしてくれてありがとうございます、という気持ちになります。
静かな夜の余韻は寝かしつけにもいいかもしれません。
個人的感想がかなり強くなってしまいましたが、とってもおすすめの絵本です。
体験したことのないことを真剣に考えたい「ぼくがラーメンたべてるとき」
こんにちは。
生まれて初めて全身に蕁麻疹が出て、痒さも恐怖の1つだと感じたくるみです。
2日間くらい全身が赤く膨れ上がり、びっくりしましたが、薬で今はすっかり良くなりました。
こんな風にここ数年、今までにない体の不調を体験することが多いです。
あえて前向きに良かったことを言えば、「世の中にはこんな症状もあるのだ」「私はこんな体質なのだ」と知ることができたこと。
同じ症状の人の気持ちが少しわかるようになり、次に同じ不調が現れたときに動じずに済む、ということです。
市販の鎮痛剤でも、人それぞれ効く薬が違い、試してみるしかないこと。
脳貧血で倒れそうなときは頭を下にして、とにかくゆっくりと息を吸うこと。
つわりの食欲は意味不明で、何も食べたくないのにジャンキーなものだけ食べたくなるなど理解し難いものであること。
ブロック注射は恐れるほどには痛くないこと。
どれも、生理痛、脳貧血、つわり、ヘルニアなどを経験して、少しずつ自分の体を知り、不調と折り合いをつけてうまくやっていくためにいろいろと試行錯誤して学んだことです。
人は経験から多くを学ぶのだなぁと思います。
体の不調のようなものは特に人それぞれ。
自分と他人とでは、痛みの感じ方も体質もたぶん違います。
私の経験が誰かの役に立つ情報なのかわかりません。
自分の経験から学ぶ部分が多いですね。
けれど、本当はもっと他の人の経験談や積み上げられた長年の知恵などから、予防できたり、早急に対策できたこともあったのかもしれません。
自分がこれから経験することの多くは、過去の人々はもう経験してきたことです。
「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」
たくさんの人々が積み重ねてくれた歴史から学んで考えることで、人間は未経験の事態に備え、善処することができるはずです。
水害を知らない私が、水害について考える。
資源の枯渇を知らない私が、資源について考える。
親の介護を知らない私が、介護について考える。
がんを知らない私が、がんについて考える。
戦争を知らない私が、戦争を考える。
どれも、事態が進んで自ら経験する時には抗い切れない大きな脅威。
しっかり準備しておくべきことです。
が…
日々の生活を送りながら、自分が経験していないことから学ぶというのはとても難しいことです。
生活に追われ真剣になれず、後回しにして、いざ脅威を感じてはじめて考え始める、という怠惰な姿勢を正したいです。
幸いと言っては良いないですが、戦争については、日本では毎年、猛暑のこの頃、考える機会が与えられます。
歴史から学べることがたくさんあります。
子ども達にもしっかりと伝えたい。
まだ子どもにとっては、自分が生きている今は特別だと感じてしまい、歴史と今が同じ延長線上だということをうまく感じられないかもしれません。
では、時間軸を固定してみたら?
今、同じ空の下で戦争に苦しんでいる人たちがいることを想像してみる。
それもまた遠いような…?でも、少しずつなら?
子どもの目線にあわせた、そんな絵本があるので紹介します。
隣りの、隣りの…少しずつ視線を動かして。
ぼくがラーメン食べてるとき、となりでミケがあくびした。となりでミケがあくびしたとき…。ぼくから始まり、隣りの隣り、とだんだんと距離が離れていき、やがて海を越え、家族の面倒を見ている子、働いている子、倒れている子…。私たちが平和に過ごしている何気ない今この瞬間にも、過酷な状況で生きている子どもたちがいることを易しい言葉と分かりやすい展開で伝えてくれる絵本です。
中華模様の書かれた大きなどんぶりにラーメン。
窓が開いていて、のんびりとした休日の昼下がり。
日本では、普通のよくある風景です。
ラーメン美味しいですよね。ちびはラーメンが大好きです。
そんな僕の横では、あくびをする猫のミケがいます。
そのとき、隣りの家ではみっちゃんが、おせんべいを食べながら畳の上に寝転がってテレビのリモコンをポチ。
そのとき、その隣の家のたいちゃんはトイレ中。水を流すところ。
そのとき、その隣の家のゆうちゃんはバイオリンの練習中。
そのとき、隣町の男の子は野球でバットをふったところ。
そのとき…
と物語の舞台は少しずつ離れていきます。
ゆうちゃんまでは、きっと「ぼく」も知っている子です。
知っている子については、みんな「今何してるかな?」と思うことがあるでしょう。
その感覚を覚えさせておいて、少しずつ距離を飛ばしていきます。
そして、舞台は隣りの国へ。
だんだんと、遊んでいない子どもたちの姿が描かれます。
赤ちゃんをおんぶしている子。
井戸から水を汲む子。
牛をひく子。
読み進めると、最初の日本の子どもの何気ない日常のチョイスが際立ってきます。
ラーメンのような美味しいものが気軽に食べられること。
働かずにテレビを見たりして楽しめる自由な時間があること。
ボタン1つで流れる水があること。
バイオリンや野球などに一生懸命になれること。
どれもが、特別ありがたがるわけでもない、なんともない日常です。
絵本の最後には、倒れている子が1人。
ぽつんと倒れている子の他には何もないページに胸がズンとなります。
荒野を思わせる色彩は次のページでさらに暗くなり、
かぜがふいている
と、一文。
ちびは「どうしたの?風で倒れちゃったんだね。」「大丈夫?起こしてあげるよ」と手を出してよいしょ、と引っ張る振りをしていました。
風で倒れたわけじゃなたんだけど…まだ難しいよなぁ、と思いつつ、「助けてあげたい」というその純粋な気持ちこそが大切かもしれない、と思いました。
ひめも、あまり理解はしていないようでしたが、黙って少し考えていました。
そして、最後にぼくに場面が移ったとき、ほっとしたようでした。
いつも妹の横暴をなだめ、私より上手に扱っている平和主義のひめには平和のコツを私が習いたいくらい。
なので、あまり説明などせずに、そっとしておきました。
きっと小さい子でも、言葉での説明を超えたものを感じ取れると思います。
風を感じて、何でもない日常への感謝と、平和への祈りと、隣人に対する優しさを忘れないように。
何度でも読んであげたい絵本です。