3つのたねに絵本の水を

日々思ったこと、子育てエピソードと共に、3人の子供たち(にーさん(中1)ひめ(小3)ちび(年中))に読み聞かせた絵本を1冊ずつ紹介しています。

今日という日はきみのためにある「きみの行く道」

こんにちは。

筋トレを始めて3日後に背中が痛くなったくるみです。背筋を使う運動はしていないはずなのになぜ…?

 

さて。 

私の母は思ったことを口に出すタイプで、私は人の意見を気にするタイプ。

表面上はうまく取り繕っていますが、あまり合わないなぁ、と常に感じています。

 

以前、母がにーさんに将来の夢を聞いたときのこと。

「歴史が好きだから、歴史学者になりたいかなぁ」と答えたにーさんに、

母は、

「えー。そんなのなら、おばあちゃん長生きしててもつまらないなぁ」

と言ったのです。

私は唖然。

子どもの夢に対して「そんなの」って何!?

だいたい「そんなの」と言われる職業なんてこの世にあるの??

まずは世界中の歴史学者の方に謝ってほしい!

「長生きなんてしてくれなくてけっこう!」という言葉を必死で堪えました。

 

母には悪気がないようなのですが、一事が万事、自分と合わなければ、人の価値観を平気で否定する人なのです。

 

そんな母に育てられた私。

思春期までは母の価値観に自分を合わせようと必死でした。

思春期に入ってからは、反発してか、絶対この人の思うようにはならないと意地になりました。

そして、最近までたぶん私は意地になったままでした。

 

けれど、子どもの進む道を考えたりするときに、母の価値観を意識するあまり選択肢を狭めている、ということに気付きました。

ある人の価値観に束縛されることと、その価値観に反発することは、実は同じことなのです。

自分がそこにはない、という点において。

そのことに、 40歳にもなってやっと気付きました。

まだまだ反抗期の子どもくらいの精神年齢でした。

 

それからようやく、自分は自由なのだという感覚を自分に芽生えさせ、誰かのためにも誰かのせいにもせずに、自分の道を、自分の意志で、自分の足で歩むということに真剣に取り組まなければならない、と思ったのです。

私はやっと精神的に自立したのだと思います。

 

なんて、遅いスタートなのでしょう。

(でも遅すぎることなんてない。変われたことを喜ぼう!)

 

そして、自分の子ども達には、親の思想や期待や理想など気にせずに、自分の考えを持って、自分の感覚を信じて、自分が満足する生き方を見つけて欲しいと切に願います。

 

たくさんの行き止まりや、障害物、暗闇、迷い道があるでしょう。

けれども、苦しい道も人は自分の脳みそと足で歩んでいくのです。

これから長い道のりを進んでいく子どもにとって、いつでも私自身は応援団でありたい、と思っています。

 

方向を決めるのは子ども。

一歩踏み出すのが不安な子どもに、「いいぞ!頑張れ~!いけるいける!」と元気づけてあげたい。

失敗して困って立ちすくんでいるときも、「大丈夫!これからこれから!」って励ましてあげたい。

 

この絵本はそんな風に、子どもを応援する気持ちを全力で表現してくれている、素晴らしい1冊です。

 

おめでとう。今日という日は、きみのためにある。

きみの行く道。いろんなことがおこるけれど、今日のこの日はきみのもの!さあ出発しなさい、きみの道をね。何かを始める人の背中を全力で押してくれる、勇気の源泉となる絵本です。

 

おめでとう。今日という日は、きみのためにある。外の世界にむかってきみは、いま、出ていこうとしてるんです。 

 

何かを始めるとき。

不安と期待で胸が張り裂けそう。

ネガティブなこと、ポジティブなこと、準備してきたあれこれや、準備し足りない気がするあれこれで頭の中はぐちゃぐちゃ。

いっそもう何もかもやめて、留まっていたい気さえする。

そんなとき。

  

この絵本を開けば、必ず背中を押してくれます。

 

不安や、障害や、思いがけない事態も、そんなことは誰にでもある大したことのないこと。

自分の脳みそと足を信じて、進むこと。それこそが何より重要なこと。

何よりも良くないことは「ただ待っていること」。

待つのではなく進め!

きみはさいこう!

今日この日は、きみのもの。

 

黄色のニット帽の男の子が、道なき道を進んでいきます。

 

ポップな色遣い、イラスト的な絵が、スランプや恐怖の道でも進めそうな気持ちを後押ししてくれます。(本当に怖い絵だったら、進む足を止めたくなると思う。)

 

全部うまくいくとは言っていません。

辛いことも、大変なときも来る。

けれど、そんなことは想定内。些末なこと。

きみならどこへでも行ける!

と、勇気をくれます。

 

「子どもが機関車とだとしたら、親はレールを敷くのが仕事ではない。

どんな道でも走れる、脱線しても修正できるような、丈夫な機関車を作るのが親の仕事です。」

子どもたちが通った幼稚園の園長先生の言葉が思い出されます。

 

結局、親は応援することくらいしかできない。

あなたを大切だと思っている人は確実に存在するよ、ということを示すだけ。

あとは身体を作る食事、安心して眠れる寝床を提供するくらい。

 

進む道の先回りしたり誘導したりはできないけど、もしも不安になって振り返ったときにはいつでも傍でボンボンを振りながら頑張れ!って全力で応援していたい、と思うのです。

 

そして。

今でこそ思うのは、きっと母もそう思っているということ。

彼女は言いたいことを言ってしまうだけで、私が強い意志を持って自分の行く道に満足している!と示せばそれで安心するのだろう、と。

 

私は私の道を、子どもたちはそれぞれの道を、できれば笑顔で進んで行けますように。

きみの行く道

きみの行く道

 

 

チョコレートの甘い誘惑「こねこのチョコレート」

こんにちは。

のんびり屋のひめに「はやく!はやく!」とばかり言うのが嫌で、良い声掛けがないか、探しているくるみです。

 

さて。

私は食欲に波があります。

これって、女性特有?それとも私だけ?もしくは男女関わらず皆さんもそうなんでしょうか?

この波は自分でも病的と思うほどで、波というより、大波です…

とにかく食べても食べてももっと食べたい時期、と、少し食べたらもう充分という時期、を繰り返して、体重を保っています。

 

先日まで食欲期だった私は、チョコレートが食べたくて食べたくて。

バッカス(毎年冬限定で販売しているロッテのコニャック入りチョコレート。お酒好きにはたまらない!)を買ってきて、夕食後に必ず食べていました。

 

一度習慣付くとチョコレートの甘い誘惑を断ち切るには、相当の覚悟が必要です。

キッチンに確かに存在するチョコレート。

1つ食べるくらい、大したことはないよね、と手を伸ばしてしまうのです。

 

だから、この絵本のジェニーちゃんの気持ちがよくわかる!

前回に引き続き、チョコレートにまつわる、とても可愛い絵本です。

 

タンスの中で誘うこねこのチョコレート

ジェニーは4歳の女の子。弟の3歳の誕生日の前日に、自分のお金を使って、こねこのチョコレートをプレゼントとして買います。それをタンスに隠してベッドに入ったジェニーですが…。子どもの心情を丁寧に描いた可愛い絵本です。

 

あたしも、クリストファーにプレゼントをかいたいな。

と、弟のために自分のお金でチョコレートを買ったジェニー。

誇らしげなお姉ちゃんの気持ちが読み取れます。

明日のためにタンスにしまうところまでは良かったのですが…

 

ベッドに入ったジェニー。タンスの中のチョコレートのことが頭から離れません。

こねこのチョコレート、ひとつたべたいな

そう考えて眠れなくなってしまったジェニーはとうとう、1つ食べてしまいます。

うーん!なんて おいしいんでしょう。 

 「うーん!」という言葉がチョコレート味をよく表現しています。

こっそり食べる夜のチョコレートの至福の味!

 

タンスまで、つま先でそーっと歩いてきたジェニーの姿が可愛くて可愛くて。

 

そして、物語は続き…

かわいらしいエピソードについつい微笑んでしまいます。

全てお見通しのおばあちゃんの言葉も温かく響きます。

 

ジェニーと同じ年のちびは、

「プレゼントは食べちゃダメだよ!○○(ちび)ちゃんは食べない!」

と宣言していました。

甘いものに目がないひめも、

「わたしもプレゼントは食べないよ。」

とジェニーをたしなめていました。

 

ダメだと分かっていても甘いものの誘惑は強い。

バッカスの誘惑に負けちゃう私はジェニーの味方です(笑)

 

とても可愛いエピソードに思わず微笑んでしまう絵本です。

こねこのチョコレート

こねこのチョコレート

 

 

バレンタインデーにおすすめの絵本「チョコレータひめ」

こんにちは。

そして、お久しぶりです。長らく更新が途絶えてしまいました。

何度も何度も、この壁にぶち当たってはもがく、くるみです。

 

記事を更新していない間にも、こんな弱小ブログに1日10名ほどが訪問して下さっているらしく、そのことに驚きを感じ、身が引き締まる思いです。

「この広い世界の中のたった10名」、と感じるか、「10名も!」と感じるかは人それぞれでしょうが、私は後者です。(そんなにアクセス数が上がったことがないからかも。)

たとえ、「あ、違った」とすぐサイトを閉じる方がほとんどだとしても。

私の発した言葉を知らない誰かがどこかで読んでくれていること。

改めてすごいなぁと感じます。

 

さて。

明日はバレンタインデー。

 

チョコレートにまつわる絵本もたくさんあるようですが、今日は艶っぽい絵が印象的な、お菓子が大好きなお姫さまのお話を紹介します。

 

宝石のようなお菓子の美しさ

あるところに、甘いお菓子が大好きな、お姫さまがいました。お城の庭が全てお菓子でできていたらどんなに素敵だろうと夢見ていた姫のもとに、風変わりな男がやってきます。彼が差し出したのは、食べると手に触れたものがお菓子に変わるという魔法のチョコレート。それを食べたお姫さまは…。艶やかな絵とクールな展開が魅力的な絵本です。

 

表紙のお姫さまの絵を見ると、指が長く、豊かな紙、通った鼻筋、ふくよかな唇。

高貴な雰囲気のある絵に惹かれてしまいました。

 

お話は、というと…

お菓子好きで本能のままに生きる(細かいこと、周りの人の苦労も気がつかない)お姫さまが、真実の愛に気付くお話。

と、思いきや、ラストは「え⁉それで終わっちゃうの⁉」という終わり。

王様の発言もユニークです。

 

その何ともシュールなストーリー展開が、エキゾチックな絵の雰囲気と相まって、個人的にとても好きでした。

「お姫さまは結婚して幸せに暮らしました。めでたしめでたし」と終わるお話はもう昔の話。

こんなラストの方が想像が膨らみます。

 

ウサギ好きのちびは背表紙のウサギにいち早く気付き、「ウサギさんかわいい!」とご満足していました。

冠を被ったグレーのウサギは媚びない表情で、確かに可愛いです。

私は、姫がウサギを抱えているページが好きでした。

魔法をかけられる前と後で、景色を見比べられるのも楽しいです。

 

また、宝石のようなお菓子にも注目です。

チョコレート売り場でショーケースに入ったチョコレートを見ると、「美味しそう!」より、「きれい!」と思うことも多いですよね。

そんなショーケースを眺めるように、カラフルなお菓子たちの絵も楽しめる絵本です。

 

バレンタインデーも、チョコレータひめは悪びれず、たくさんの人から貰ってばかりいる気がするなぁ。

チョコレータひめ

チョコレータひめ

 

 

 

 

 

名前が欲しい=…?「なまえのないねこ」

こんにちは。

また更新が滞ってしまいました。

子どもと読んでいる絵本の数は以前より増えていて、下書きばかりが増えています。それなのに全然更新ができず、溜まる一方…焦るくるみです。

 

さて。

最近、村田沙耶香さんの本が好きです。

村田さん、「クレイジーさやか」と呼ばれているらしいですね。

そのクレイジーな世界にどっぷりはまるのが楽しいです。

クレイジーでもないような…と思いつつ、やっぱりクレイジー過ぎる、と思ったり。

 

「クレイジー」って何なんでしょう?

クレイジーと感じるのは普通だと感じている価値観があるから。

村田さんの小説は、普通だと思っていることが本当に当たり前なのかを考えるきっかけをくれます。

 

当たり前のこと、といえば。

例えば、私たちに、生まれつき名前があること。

私たち人間は生まれた時必ず名前を付けられます。

 

住民票に登録し、教育、納税の義務を果たすための名前。

それはまあ、社会的に必要な記号的役割ですが、名前の役割の神髄は、他と区別し呼んでもらうこと。

 

米津玄師さんも「アイネクライネ」 で言っています。

あなたの名前をよんでいいかな

 

誰かを必要とし、大切な存在として他と区別すること。

 

一方、地球上の生命体のほとんどは名前など付いていません。

乳酸菌1つ1つについて。

蝶一匹について。

そこここに咲くぺんぺん草のひと株。

 

人間以外の動物で、他の生命体に名前をつける動物はいるのでしょうか…

逆に、言葉という記号がなくても、周りの世界を認識できることが、すごいことにも思えます。

 

普段人から名前を呼ばれているペットの犬などは、しっかり名前というものの使い方を理解できているはずだけれど。

動物にとって名前を呼ばれるのはどんな気持ちなんでしょう。

名前を呼ばれるのは、やっぱり嬉しいものなのかな。

 

今日の絵本は名前のない1匹のネコのお話です。

 

名前が欲しい=…?

ぼくには名前がない。知っている近所のネコにはみんな名前がある。いいな。ぼくにも名前欲しいな。町を1人歩くネコが本当に欲しかったものとは?なんてことのない名前というものが大切に思えてくる1冊です。

 

表紙をめくると裏表紙に描かれたたくさんのネコ。

 

安直だったり、2つあったり、それぞれですが、みんな名前があります。

  

一方、主人公のネコには名前がありません。

こんなネコ散歩中にみたことある!と思うようなリアルな絵が素敵です。

太ったネコの貫禄。肉のたるみ具合も、触れそうなほどリアルです。

 

ちいさいときは ただの「こねこ」だった。

おおきくなってからは ただの「ねこ」だ。

 

なんだかさみしい孤独なネコ。

 

名前のないネコというと、「吾輩は猫である」を思い出し、なんだか自由なネコのイメージがあって、名前なんていらないんじゃないかと思ったりもしますが、このネコは名前が欲しいみたい。 

我が家の女子2人は、このネコにすっかり同情して、「かわいそう」とか「私が名前つけてあげる!」と張り切ってネコの名前を考えたりしていました。

 

そして、ネコは、とても大事なことに気付きます。

 

たかが名前。

けれど名前を呼ぶ、ということは、その存在を他と区別するということ。

唯一の特別な存在として認められる、ということ。 

 

この当たり前の、大切さについて思いを馳せられる絵本です。

(個人的にはネコは名前がないのも似合う気がするけど…)

ネコの愛らしさを描いた絵にも注目です。

なまえのないねこ

なまえのないねこ

  • 作者:竹下文子
  • 発売日: 2019/04/25
  • メディア: 大型本
 

 

季節の移ろいを感じながら「はるとあき」

こんにちは。

米津玄師の歌が好きなちび。

時々、急に歌詞が耳に入ってくるらしく、「悲しいんだって。なんでだろうね?」などと、言います。

「工事しててお家に入れなくて、悲しいのかな?」というちびに、「悲しい」と聞いて最初に思い浮かぶのがそれ??と思ったくるみです。

 

さて。

急に、朝晩寒くなりましたね。

だんだんと早朝ウォーキングするのに、布団の誘惑という試練を超えなければいけなくなってきました。

 

年を追うごとに、自分にとっての適温の範囲が狭くなっているような気がします。

 

暑さでヒーヒー言っていたのに、すぐに寒さに震える。

そんな感じで1年が過ぎていきます。

 

寒くなると暑い夏が、暑くなると寒い冬が、まるで嘘のように感じられ、本当にそんな日があったのだろうかと不思議な気持ちになります。

 

足して2で割って、ずっと過ごしやすい季節ならいいのになぁ。

 

けれど、この変化、四季こそが日本の自然や文化や食事を豊かにしてくれているのですよね。

 

桜の花が満開になって散り、雨に咲く紫陽花、向日葵の花が高く高く伸び、葉が赤くなり、道を落ち葉が染め、椿の花が咲き、霜柱をザクザクと踏む音。

 

秋には桜の花を見れないし、春には赤い葉は見られない。

 

そんな日本では当たり前の四季の移ろいを題材にした、幻想的で可愛い絵本がありました。

 

会ったことのない友だち

春夏秋冬が人として描かれています。主人公のはる。ふゆに起こされ、なつと交代して、次の春まで眠ります。ある年、はるは会ったことのないあきに手紙を書くことにしました。春の様子、秋の様子。日本の四季の美しさを感じつつ、違うものそれぞれの良さについて考えられる絵本です。

 

4つの季節が擬人化されているのが面白いです。

それぞれ、性格も違っていて、なつは「すかっとした魅力がある」、ふゆは「きりっとしている」と自分のことを表現しています。

 

はるとあきは、なつとふゆに届けてもらい、1年に1往復の文通を始めます。

 

相手の手紙の文面から、お互いの季節を知ります。

満開の桜の花や、いちご。

あきは春の風景を想像します。

紅葉や虫の声。 

はるは秋の風景を想像して、楽しんでいます。

 

ところが、ある年、はるは自分との文通はあきにとっては退屈なのではないか、と不安になります。

 

違う景色に囲まれている、はるとあき。

ずっと会うことができない、はるとあき。

 

人間は、どういう人と友だちになるのでしょう。

趣味や性格が似ている者どうしが友だちになることもあるし、全然違う者どうしが友だちになることもある。

一見違っていても、実は似ているところがあったり。

 

また、一緒にいられないと友だちにはなれないのものなのでしょうか。

 

じぶんにも いいところが あるって きづけたよ 

というあきの言葉が印象的でした。

自分にとって当たり前だと思っていたことが人にとっては特別なこと。

それを知ることで自分の価値や個性を認識することできます。

 

ふゆのセリフにもほっこりします。

外から客観的に見ると気付くことも、たくさんありますね。

 

違っても同じでも、会えても会えなくても、友達でいることはできる。

そう思わせてくれる絵本でした。

 

 

ひめは春夏秋冬それぞれの女の子の特徴が気になったようでした。

ひめのイメージは春と冬は女の子で、夏と秋は男の子、とのことです。

 

この絵本では全員女の子で夏と冬はショートカットです。

表紙と裏表紙の見開きで4人が描かれていて、それぞれ季節のものに囲まれています。

イチゴにつばめ、朝顔とひまわり、リスに落ち葉、雪と白い山。

 

同じ場所でも季節によってそのときしか見られないものがある、という自然の豊かさを感じます。

 

個人的にとても好きな絵本でした。

皆さまもぜひ。

はるとあき

はるとあき

 

 

赤ちゃんにもしっかりとした意志があるという感覚「赤ちゃんのようじママのようじ」

こんにちは。

「ママも‟しょうどく”してね」とお風呂でちびに水をかけられ、ごっこ遊びにも時代を感じたくるみです。

 

さて。

今日は子育てについて、少し語ってしまいます。

 

ブログでも何度も書いているような気がしますが、3人の親となっているものの、私は子どもを育てるということについて、まるで無知でした。

 

というより、何かを真剣に「育てる」こと自体がほぼ初体験。

会社でも、後輩とは友達感覚で、頼ったり頼られたりしていました。

 

生まれつきの末っ子気質。

世話はするよりされる方。

動物を飼うこともままならず、植物のお世話もできない私。

甘えてなんぼ、頼ってなんぼ、の人生を送ってきた私に、訪れた試練が「子育て」です。

 

子育てなんて人間の数だけみんながやってきたんだからきっと自分にもできるだろう、と甘く見ていた私。

 

一口に子育てといっても、要は、人と人。

無数のケースが存在し、 一括りにできないもの。

親の性質と子どもの性質によって、無数の組み合わせが存在する。

 

ということも知らず、実際に子育てをしてそのことを学びました。

 

子どもの性質だけをみても、

よく寝る子。全く寝ない子。

離乳食をよく食べる子。全力拒否の子。

元気な子。病気を患っている子。

ご機嫌な子。癇癪を起こす子。

積極的な子。慎重派な子。

 

その他項目は数知れず。

それぞれの項目の中でも2極の間に無数のレベルがあるわけです。

 

「育てやすい・育てにくい」と言ってしまうと、親の勝手な指標だろうと批判もあるでしょうが、3回の子育てを経験した拙い私見では、「育てやすい・にくい」という観点は間違いなく存在します。

 

親の性質との相性ももちろんあるでしょうし、「育てにくい」=「悪い」では決してありません。

 

植物だって、手間がかかり、「育てにくい」けれど、きれいな花で人を癒すものもある。

ここでは「育てにくい」けれど、環境が違えば「育てやすい」と感じるような植物もありますよね、きっと…

(植物について詳しくないのに例に挙げてしまって申し訳ないのだけれど)

 

なので、あくまで1つのケースとして、読んで欲しいのですが…

 

 

私にとって、にーさんは育てにくい子でした。

 

それが初めての子だったので、子育てとはこんなにも大変なことなのか!!と何度となく衝撃を受けました。

寝ない、食べない、熱出す、薬は飲めずにすべて吐き出す、後追い、人見知り、癇癪、天邪鬼…

 

その中でも、6カ月くらいまでの赤ちゃんにとって、寝るか寝ないかは子育ての大変さを大きく左右する項目だと思います。

 

にーさんは、とにかく、まあ寝ない子でした。

 

抱っこで寝ても布団に降ろすと99%起きる。

1%で寝たとしても、ティッシュをとる音でも起きてしまうほど音に敏感でした。

だっこひもなどは体を反って全力拒否。

とにかく、自分だけの力で抱っこして、泣くのでスクワット運動を繰り返す日々。

いまだに家の窓から見える街灯が頭に浮かびます。

 

眠れないと癇癪。

ご機嫌の時間は本当に貴重でした。

 

困り果て、眠れない子の対処法を調べて、ほとんど試しました。

生活リズムを整える、外遊びをさせる、クラシックをかける、背中をトントン、おでこを撫でる、絵本の読み聞かせ、寝たふり、もういっそ寝かしつけずに起こしておく、車でドライブ、寝ろ〜というプレッシャーをかけないように違うことを考える…

 

その方法の中に「泣き疲れて眠る」というものがありました。

どんな子でも泣き続けると疲れて眠る、という理論です。

泣く姿に同情せずに耐えて、疲れるのを待て、という方法でした。

 

泣かせることが罪悪感を生むあげく(場合によっては近所迷惑も)、一日の最後に泣き疲れて寝た我が子の罪のない寝顔を眺める、という母親にとって恐ろしい結末の、悪魔の寝かしつけ法です。

 

ありとあらゆる方法を試してうまくいかず、とうとう悪魔の方法に手を出した私。

 

結果、彼は1時間半、ぶっ通しで泣き続けました…。

 

途中心配になってマグをあげたり、あまりのことに熱を測ったり。

結局どこも悪くなく、ただただ、抱っこしてもらって寝たいだけなのでした…。

 

1時間半泣き続けられるって、相当です。(私の知る限り、なかなかないです。)

その後抱っこしたらいつもより早く寝て、ほっとして涙。罪悪感。

 

そして、私は悟ったのです。

寝ない子は寝ない。

親がこうして欲しいと思っても、簡単にそうなるわけではない、と。

 

この、1人では食べることや寝ることさえままならないような、小さい生き物にも、強い意志が存在しているのだ、と。

 

正直、このことを知ったことは、私の人生にとってとても大きな出来事となりました。

2つの大きなことを学ぶことができたからです。

 

人は変えられない。変えられるのは自分の意志と行動だけ。」ということ。

そして、「自分にとっては不本意でもある、眠りたくない子供の眠りたくない(眠ることができない)性質を、親は認めて受け入れなければならない。恐怖政治で変えることはできないし、すべきではない」ということ。それこそが個性を認めることであり、「みんな違ってみんないい。」ということなんだということ。

 

このことは子育てには限らないことだと思います。

きっと、子どもを育てなくても、様々な人間関係から学んで知っている人は多いのでしょう。

私が子供から初めて学んだ、というだけで。

 

子どもを産む前に学んでいられたら、もっと寛容な心でただただ可愛がりながら、にーさんを育てられたのかもしれません。

そう思うと、にーさんに申し訳ない気持ちになります。

眠くて、重くて、へとへとに疲れていて、イライラして、寝かしつけしてしまった日々。

「あなたはほんとにうまく眠れないんだね」と笑う余裕がなかった私。

 

この絵本のママには、赤ちゃんにも赤ちゃんの用事があると思う感覚があって、それがとても素敵で、にーさんのことを思い出しました。

 

いまだに細かいことでイライラしてばかりの私ですが、にーさんの小さい頃を懐かしく思い出しながら読んだ絵本です。

 

赤ちゃんにも用事がある

赤ちゃんのハンナははいはいが得意。「ハンナ止まって!ママはご用事があるの」とママが言っても関係なし。すばやくハイハイするハンナと抱きとめるママのやり取りが温かい絵本です。

 

積み木で遊んでいてと言われても、海辺のカニさんよりすばしこくはいはいで出ていくハンナ。

ママの体操を見ていてと言われても、棚にある本をほとんど引っ張り出して、のはらのネズミさんより素早く逃げ出す。

電話の間、そばで遊んでいてと言われても犬のジェイクのそばまでキノボリトカゲより速くはいはい。

はたけのウサギさんより速くはいはいしてキッチンの鍋を散らかします。

 

「ハンナさん それも あなたの ごようじなのね」

という、ママ。 

 

絵はあまり可愛い感じではないけど、ママの愛が溢れています。

 

育児中、ママは赤ちゃんがいるとトイレも自由にいけません。

 

「用事」とは、しなければいけないもの。

 

トイレに、仕事や家事に、人間関係に、食事に、美容に…

特に自分がしたいわけでもないものも含めて、大人にはたくさんの用事があります。

したいことができなくなるわけではなく、しなければ生きていけないことさえもままならないもどかしさ。

当たり前にできていたことが、拘束されることの不自由さ。

 

けれど、それは赤ちゃんも同じなのかもしれません。

たくさんのことを五感で感じて成長する、その興味こそが用事。成長の糧なのです。

 

このママはハンナに対して、

それもあなたのごようじだったのね

 と言います。

 

ママに用事があるように赤ちゃんにも用事がある。

そう思える感性に、はっとします。

 

絵本をひろげ「これは ふたりの ごようじね」というママ。

絵本にはこれまでの動物たちが登場します。

 

キノボリトカゲという我が家ではなじみのない動物がここで再び出てきて、ひめは「絵本に出てくる動物だったんだね!」と喜んでいました。そんな小さな発見が絵本を楽しくします。

小さい子が好きなひめは、ハンナの様子にちびを重ねて、「ぜんぜん言うこと聞かないね(笑)」と楽しそうでした。

 

そう、ちびは自由奔放。

たぶんにーさんの時より、寛容になっている私。(年のせいもありますが・・・)

 

同じ親の子育てでも変化はするもの。

成長なのか、老化なのかはさておき、子育ては人と人との関係です。

人は時とともに変わる流動的なもの。

その時その時の精いっぱいの自分をぶつけることしかできないと慰めながら、今日も過ごすのです。

 

 

長くなってしまいましたが…

大人の用事と子供の用事を天秤にかけ、大人に軍配が上がる、と考えている全ての人に、読んでもらいたい絵本です。
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学校に行きたくない気持ちを肯定する「このままじゃ学校にいけません」

こんにちは。

パッと光って散った〜♪

「オーケーグルグル よねずけんしの はなび ながして」と言うのが口癖のちび。

永遠にリピートされる「打上花火」に頭がおかしくなりそうなくるみです。

いい曲でもずっと同じだとちょっとね…

 

さて。

にーさんの小学校生活はあと半年で終わろうとしています。

一時期、頭を悩ませたこともあったけれど、無事6年間通えそうでホっとしています。

 

一方、ひめは小2。

自分と同じ性別ゆえにわかる、女子社会の世知辛さ。

最近ふとした時に「休み時間遊ぶ子いないし」などとつぶやき始めたひめが少し心配です。

 

 みんなと仲良く。

 友だち100人できるかな。

 目指せ、一致団結!チームワーク!かけがえのない絆!

 

そんな価値観が自然と植え付けられていた私。

嫌われないようにうまく立ち回って、友達の多い子をうらやましく思っていました。

 

社会人になってから、適度にそれなりに合う人がいればいい、友だちはそんなにいなくても大丈夫、ということに気付き、とても気が楽になりました。

 

さらに数年前に「友だち幻想」という本を読んで、大いに共感し、子どもにも伝えたいと思いました。

 

 100%わかり合える人などはいない。

 どんなに親しくなっても他者である。

 ということを意識した上で、信頼感を築くこと。

 分かり合えない人がいても、ぶつからず、自分も相手も否定せずに、適度に距離を置き、うまくやっていく力を付けること。

 

以前の価値観からすると、合理的で冷たく聞こえるかもしれませんが、そう思って生きることは全然悪いことではなく、むしろ現代の世の中に適応している考え方とのこと。

 

他者とうまく付き合うのは、自分がより良く生きるためです。

他者の邪魔もせずに自分のやりたいことを実現できるように生きるために。

なにより大事なのは折り合いを付けること。

 

 

今日は、その折り合いをうまくつけられない、1人の少女の物語です。

 

動物に擬態してやり過ごすエディの1日

エディは学校に行きたくない気分。友だちとも話したくなく、授業も受けたくない。1人でブランコに座って考え事。友だちにタックルして校長室へ連行されて…。たくさんの動物に擬態してなんとか学校生活を1日やり切った少女の心の動きを感じることのできる絵本です。

 

嫌々家を出発する顔のないエディ。その顔はのっぺらぼうです。

学校に着いて、コウモリのようにじっとしていたいと願うエディはリアルなコウモリとして描かれています。

 

その描写が初めは少し恐くも感じますが、慣れてくるとそれほど恐くもありません。

「大人の塗り絵」を想わせる、線の多いボタニカルな絵は、とてもおしゃれな色遣いで、私は好きでした。

 

絵文字の顔のような絵が人物の頭の上に書いてあり、気分を表しているのも、独特で面白い表現方法です。

 

エディは自分を殺し、嫌な時間を動物になってやり過ごします。

エディのクラスメイトも耳や角が生えていて、エディには何か動物に見えているのでしょうか。

 

チーターになり、気に入らないクラスメイトに突進してしまったエディ。 

じーっと身動きせずにいれば校長先生は私に気付かないかも、とカメレオンになるエディ。

 

動物に擬態することで、居心地の悪い空間に存在することができるというのは、現実逃避でしょうか。

解離と呼ばれる心理状態かもしれません。

 

大きな翼が生えて空高く飛べるといいのに。

と一人きりで思うエディがとても可哀想になります。

 

けれど、周りからすると、授業を真面目に受けず、話も聞かず、反抗的で、友達に危害を加えた暴力的な問題児です。

 

その後、やっと家に帰ったエディはまだ動物のまま。

チョウやミミズになり、歯磨きもまともにできません。

 

そして。

寝る前に、洗面台で鏡を見たとき、初めて、のっぺらぼうのエディの目や鼻が見えます。

 

 

でも、うつっているのは エディでした。

あした 学校に いかなければならない エディでした。

 

どんなに動物の真似をして逃避しても、現実は変わらない。

生まれてから死ぬまで、自分という場所から逃れられない私たち。

そう思うとエディと一緒に泣きたくなります。

 

涙を流した エディにママが言います。

悲しいときに涙を流すのは人間だけだ、と。

 

エディはエディ。

それは受け止めなければならない。

受け止めることで涙は流れるかもしれない。

けれど、溜まった涙はざーっとこぼれ、その後はスッキリする。

私たちは動物とは違い、涙で流すことができる。

雨雲が雨を降らした後、ふわふわに戻り、お日様も出てくるように。

 

ひめとちびは、最初は顔のない少女に怪訝な顔をしていましたが、動物たちが気になったようで、エディのぬいぐるみが出てきたページで、「あ!エディがなってたイカとか、ぬいぐるみだったんだ!」と発見して喜んでいました。

 

そうなんです。イカアルマジロナマケモノ、ミミズ…

エディが擬態していた動物は、一般的に愛される動物ではない少し気持ち悪い物もいましたが、それはすべて自分のぬいぐるみだったのです。

それを見て、なんだか切ない気持ちになりました。

 

エディの思考は、他の人には一見理解することができないけれど、その子なりの理由やルーツがあること。

それを善悪や正誤というものさしを使わずに、話を聞いてあげることができたら…

 

現実逃避してもいい。でもチータはだめ、と淡々とエディを送り出すママの愛にじんとします。

他の動物にならなってもいいけど、チータはだめ、という線引きこそが折り合いをつける、ということなのかもしれません。

 

自分が自分であることに辛さを感じるすべての人の心に寄り添う絵本だと思います。

このままじゃ学校にいけません

このままじゃ学校にいけません